吉川英治『三国志(新聞連載版)』(776)鳳雛(ほうすう)去る(三)
昭和17年(1942)4月3日(金)付掲載(4月2日(木)配達)
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「居ります。たゞ一人」
と、魯粛は、主君の言下に、かう推薦した。
「世々襄陽の名望家で、龐統、字(あざな)は士元、道号を鳳雛先生ともいふ者ですが」
「おゝ、鳳雛先生か。かねて名だけは聞いてをる。周瑜と人物を較(くら)べたら?」
「故人の評は云へません。併(しか)し、孔明も彼の智には深く伏してゐます。また襄陽人士のあひだでも、二人を目して、兄(ケイ)たり難く弟(テイ)たり難しと云つてゐます」
「そんな偉才か」
「上(かみ)天文に通じ、下地理を暁(さと)り、謀略は管仲、楽毅に劣らず、枢機の才は孫子、呉子にも並ぶ者といつても過言ではないでせう」
孫権は渇望の念を急にした。すぐ召し連れよとある。魯粛が数日のあひだ龐統を市中に探してゐる間も、
「まだか。まだか」
幾度も催促した程だつた。
けれどやがて魯粛がたづね当てて呉の宮中へ伴(つ)れて来たのを一見すると、孫権はひどくがつかりした顔をした。
何分にも、風采が揚らない。面は黒(くろ)疱瘡(バウサウ)のあとでボツ/\だらけだし、鼻はひしげてゐるし、髯(ひげ)は髯といふよりも、短い無性(ブシヤウ)髯(ひげ)でいつぱいだ。
(こんなまづい男様(おとこざま)も少い)
と孫権は、古怪を感じながら、それでも二、三の問ひを試みた。
「足下(ソクカ)。何の藝があるか」
龐統は答へた。
「飯を喰ひ、やがて死ぬでせう」
「才は?」
と、訊くと、
「たゞ機に臨んで、変に応じるのみ」
と、ぶつきら棒である。
孫権はいよ/\蔑みながら、
「足下と、周瑜とを較べたら?」
「まづ、珠(たま)と瓦でせうな」
「どつちが?」
「御判断にまかせます」
明かに、この黒〔あばた〕が、自ら珠を以て任じてゐる顔つきなので、孫権は、ぷつと怒りを含んで奥へかくれてしまつた。そして、魯粛を呼び、
「あんな者はすぐ追ひ返せ」
と云つた。
魯粛は、彼の感情に曇つた鑑識を極力、訂正に努めた。
「一見、狂人に似、風采も揚らない男ですが、その大才たる証拠には、かの赤壁の戦前に、周瑜に教へて、連環の計をすゝめ、一夜にあの大功を挙げ得た陰には、実に龐統の智略があつたのです。——故人の偉勲を傷つけるわけではありませんが」
「いやいや、予は虫が好かんのだ」
「御意にかなひませぬか」
「天下人なきに非ずと、そちも云つたではないか。何を好んで…」
「ぜひも御座いません」
夜に入つてゐた。
魯粛は、気の毒にたへないので、自ら城門の外まで彼を送つて来た。そして、人なき所まで来ると、声をひそめて慰めた。
「けふの不首尾、まつたく要らざる推挙をした私の罪です。先生もさぞ御不快だつたでせう」
龐統はたゞ笑つてゐる。
魯粛はことばをかさねて
「先生はこれを機(しほ)に、呉を去るお意(こゝろ)でせう」
「去るかもしれない」
「国外へ出て、もし主君をお選びになるとしたら、誰(たれ)に仕へますか」
「もちろん魏の曹操さ」
もし曹操の許へ彼に奔(はし)つて行かれては堪(たま)らないと魯粛は思つてゐた。で、一書を袂(たもと)から取出して、
「荊州の玄徳にお仕へなさい。かならず貴君(あなた)を重用しませう」
と極力、玄徳の徳を称(たゝ)へて、紹介状を渡した。
「あはゝゝ。曹操につくといつたのは戯れだよ。ちよつと君の心を量つてみた迄(まで)さ」
「それで安心しました。先生が玄徳を扶(たす)けて、曹操を討つ日が早く来れば、呉にとつても大慶ですから。——では、御機嫌よう」
「おさらば」
ふたりは、相別れたが、なほ幾度も振向き合つた。
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次回 → 酔県令(すゐけんれい)(一)(2026年4月4日(土)18時配信)
昭和17年(1942)4月4日付の夕刊は休刊でした。これに伴い、明日4月3日の配信はありません。

