吉川英治『三国志(新聞連載版)』(775)鳳雛(ほうすう)去る(二)
昭和17年(1942)4月2日(木)付掲載(4月1日(水)配達)
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魯粛は、江の岸まで孔明を送つて来た。
別れて孔明が、船へ乗らうとした時である。竹冠の浪人は
「待てつ」
いきなり馳け寄りざま、臂(ひじ)(ママ)を伸ばして、孔明の肩を引つ摑んだ。そして、大声に
「すでに周都督を、気をもて殺しながら、口を拭いて、自らその喪(も)を弔ふと称し、呉へ来るなどは、呉人を盲(めくら)にした不敵な曲者(しれもの)、呉にも眼〔あき〕は居るぞ」
と、片手に剣を抜いて、あはや孔明を刺さうとした。
別れて十歩ほど、そこを去りかけた魯粛も、この声に仰天して
「何をするかつ、無礼者」
と、馳けもどるなり浪人の腕をつかんで振(ふり)飛ばした。
すると浪人は、自身ひよいと飛びのいて、
「あはゝゝ。冗談です」
と、もう剣を鞘(さや)に収めてゐた。
見れば、背の低い、そして鼻の平〔たい〕、容貌といひ風采といひ、まことに人品のいやしげな男だつた。
孔明は、〔にこ〕と笑つて、
「やあ、誰(たれ)かと思ふたら、龐統ではないか」
と、親しげに寄つて、その肩を打(うち)叩いた。
「なんだ、貴君(あなた)か」
と、魯粛も気抜けしたり、〔ほつ〕と胸を撫でたりして、
「悪いお戯れをなさる。部下の血気者でも狼藉に及んだかと思つて、恟(ぎよ)ツとしましたよ」
一笑して、彼はその儘(まゝ)、城内へ帰つて行つた。
龐統、字(あざな)は士元(シゲン)、襄陽名士のひとりで、孔明がまだ襄陽郊外の隆中に居住してゐた頃から、はやくも智識人たちの間には、
龐統ハ、鳳凰(ホウワウ)ノ雛(ひな)。
孔明ハ、臥(ふ)セル龍ニ似ル。
——と、その将来を囑目されてゐたものだつた。
荊州滅亡の後、その龐統は、呉の国に漂泊してゐるとは、かねて孔明も人のうはさに聞いてゐたが、こゝで相見たのは、まことに意外であつた。
で、孔明は、船が纜(ともづな)を解くまでの寸間に、一書をしたゝめて、彼にかう告げて手渡した。
「おそらく、御身の大才は、呉の国では用ひられまい。君も一生さう浪人してゐるつもりでもあるまいから、もし志を得んと思ふなら、この書を携へて、いつでも荊州へやつて来給へ。わが主玄徳は寛仁大度、かならず君が補佐して、君の志も、共に達することができよう」
孔明の船は、江を溯(のぼ)つて、遠く見えなくなつた。
船影が見えなくなる迄(まで)、龐統は岸に佇んでゐたが、やがて飄乎(ヘウコ)として、何処へか立去つた。
その後、呉では、周瑜の柩(ひつぎ)を更に蕪湖(ブコ)(安徽省・蕪湖(ウーフウ))へ送つた。蕪湖は周瑜の故郷(ふるさと)であり、そこの地には故人の嫡子や女(むすめ)などもゐるし、多くの郷党もみな嘆き悲しんでゐるので、名残を篤うさせたのであつた。
けれどいくら死後の祭(まつり)を盛大にしてやつても、なほ恋々と故人の才を惜んでは日夜痛嘆してゐたのは孫権自身であつた。すでに乗り出してしまつた大業に向つて、まだ赤壁の一戦に大捷(タイセフ)を克(か)ち獲たきりである所へ、恃(たの)む股肱を失つたのであるから、その精神的な傷手の容易に癒(い)えないのも無理はなかつた。
それに代る柱石として、魯粛を大都督に任じたものゝ、魯粛の温厚篤実では、この時代をよく乗り切つて呉の国威を完うし得るかどうか頗(すこぶ)る疑はしい。——それは誰(たれ)よりも魯粛自身がよく知つてゐた。
「私は元来、取るに足らない凡庸です。周都督の御遺言といひ、君命もだし難く、一応おうけ致したものゝ、決して天下人なきわけではありません。ぜひ、孔明にも勝るところの人物を挙げてその職にあたらせて戴(いたゞ)きたう存じます」
彼の正直なことばを孫権もそのまゝ容れて、併(しか)し一体、そのやうな人物が居るだらうかと反問した。もし居るならば推薦せよと云はぬばかりに。
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