吉川英治『三国志(新聞連載版)』(773)(ママ)†鳳雛(ほうすう)去る(一)
昭和17年(1942)4月1日(水)付掲載(3月31日(月)配達)
†本来は連載番号は(774)であるべきですが、現物の記載に従います。
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喪(も)旗(キ)を垂れ、柩(ひつぎ)を載せた船は、哀々たる弔笛(テウテキ)を流しながら、夜航して巴丘を出(い)で、呉へ下つて行つた。
「なに、周瑜が死んだと?」
孫権は、彼の遺書を手にするまで、信じなかつた。いや信じたくなかつた。
周瑜の遺書には、
瑜、死ニ臨ミ、泣血(キユウケツ)頓首(トンシユ)シテ、書ヲ主君明公ノ麾下ニ致ス
と書き始めて、縷々(るゝ)といま斃(たほ)れる無念を陳(の)べ、呉の将来を憂ひ、その国策を誌(シ)し、そして終りには、
(自分の亡(な)い後は、魯粛を大都督として職をお任せあれば、彼は篤実忠良な仁者ですから、外に過(あや)またず、内に人心を獲ませう)
とも云ひ遺(のこ)してあつた。
孫権の悲嘆はいふまでもない。暗澹と、彼の将来を思つて、
「周瑜のやうな王佐の才を亡くして、この後何を力と恃(たの)まう」
と慟哭した。
けれどいつ迄(まで)嘆いてゐる所ではないと、張昭そのほかの重臣たちに励まされて、周瑜の遺言を守り、魯粛を大都督に任命した。以後、呉の軍事は総(すべ)て、彼の手に委ねられた。
もちろん、国葬を以て、遺骸は篤く葬られた。国中、喪に服して、哀号の色もまだ拭はれないうちに一船、江を下つて来て、
「元勲、瑜公の死を聞き、謹んで遠くより、おくやみに来ました」
と告げた者がある。
さう関門へ告げに来た者は、すなはち趙雲子龍であつたが、正使は諸葛孔明その人であり、玄徳の名代として従者五百餘をつれて上陸した。
喪を弔ふ——と称して来た者を拒むわけにもゆかなかつた。魯粛が迎へて対面した。しかし故人周瑜の部下や、呉の諸将も口々に、
「斬つてしまへ」
「これへ来たこそ幸(さいはひ)なれ、彼の首を、霊前に供へ、故人の怨恨を今ぞ晴らさん」
と、犇(ひし)めきあつた。
けれど、孔明のそばには、たえず趙雲が油断なく眼をくばつてゐるので、容易に手が下せなかつた。
しかも孔明は塵ほどな不安も、姿にとめてゐなかつた。
殺気満ち盈(み)つ中を、歩々(ホヽ)、水の如くすゝんで、周瑜の祭壇に到るや、その前に額(ぬかづ)いて、やゝ久しく黙拝してゐたが、やがて携へて来た酒、その他の種々(くさ/゛\)を供へ、霊前に向つて恭しく自筆の弔文(テウモン)を読んだ。
惟(これ)、大漢ノ建安十五年。南陽、諸葛亮、謹ンデ祭(サイ)ヲ大都督公瑾周府君ノ霊前ニ致シテ曰(いふ)。
嗚呼(アヽ)公瑾不幸ニシテ夭亡(エウボウ)ス、天(テン)人(ひと)倶(とも)ニ傷マザルハ非ズ……
孔明の声は、一語一句、呉将の肺腑(ハイフ)に滲(し)みた。弔文は長い辞句と切々たる名文によつて綴られ、聞く者、哭くまいとしても哭かずにゐられなかつた。
——亮ヤ不才、計ヲ問ヒ、謀(はかり)ヲ求ム、皆君ガ神算ニ出(イ)ヅ。呉ヲ扶ケ、曹ヲ討チ、劉ヲ安ンジ、首尾(シユビ)掎角(キカク)、為ニ完(まつた)シ、嗚呼(あゝ)公瑾今ヤ永ク別ル。何ヲ慮(おもんぱか)リ何ヲカ望マン。冥々滅々、霊アラバ我心ヲ鑑(み)ラレヨ。此ヨリ天下再ビ知音無カラン。嗚呼(あゝ)痛マシイ哉。
読み終ると、孔明は、ふたゝび地に伏して大いに哭(な)き、哀慟の真情、見るも傷ましいばかりだつたので、並び居る呉の将士も悉(こと/゛\)く貰ひ泣きして、心ひそかに、皆かう思つた。
(周瑜と孔明とは、たがひに仲が悪く、周瑜はつねに孔明を亡き者にしようとし、孔明もまた周瑜に害意をふくんでゐると聞いてゐたが、……この容子ではまるで骨肉の者と別れたやうな嘆き方だ。察するところ、周瑜の死は、まつたく孔明の為ではなく、むしろ周瑜自身の狭量が、みづから求めて死を取つたものだらう。どうも、それでは致し方もない……)
初めの殺意は、却(かへ)つて、後の尊敬となつて、魯粛以下、みな引留めたが、孔明は長居は無用と、惜まれる袂(たもと)をふり切つて、その日のうちにすぐ船へ帰つて行つた。
ところが、こゝにたゞ一人、城門の陰から見え隠れに、孔明のあとを尾(つ)けて行つた破衣(ハイ)竹冠(チククワン)のみすぼらしい浪人者があつた。
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