吉川英治『三国志(新聞連載版)』(773)荊州往来(五)
昭和17年(1942)3月31日(火)付掲載(3月30日(月)配達)
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周瑜の侍医や近侍たちは、交々(こも/゛\)になだめて、安臥をすゝめた。
「怒気をお抱(いだ)き遊ばす程、破傷の御苦痛は増すばかりです。何とぞお心をしづめて、静かに、しばし御養生を」
大軍を率ゐて遠く溯江(ソカウ)し、上陸第一日に此(この)凶事だつたから、諸人の気落と狼狽は無理もなかつた。
ところへ、呉侯孫権の弟(おとうと)孫瑜(ソンユ)が援軍を引いて到着したと報じて来た。周瑜が、
「会ひたい」
といふので、早速、馬をとばして迎へにやると、孫瑜はすぐ駈けつけて、かう慰めた。
「都督、餘り焦々(じり/\)せぬがよい。予がこれへ来たからには、万事、呉侯に代つて指揮いたす故、御身はしばらく船中へ退(ひ)いて、何よりも身の養生に努めるがいゝ」
然(しか)し、周瑜はなほ、身の苦痛など口にも出さない。火の如き憤念を吐いて、
「誓つて、荊州を取り、玄徳孔明の首を見なければ、何の顔(かんばせ)をもつて呉侯にまみえよう」
血涙をたゝへて云つた。
孫瑜は、その激越を気づかつてわざと対手(あひて)にならない。そして直(たゞち)に病輿(ビヤウヨ)を命じて彼を乗せ、ひとまづ夏口の船場まで退(ひ)くことにした。
その途中である。巴丘(ハキウ)といふ所まで来ると、彼方に荊州の一軍が江頭の道を切(きり)塞いだといふ。物見を放つて伺(うかゞ)はせると、関羽の養子関平と劉封の二将が、
「周瑜来らば——」
と、虎を狩るやうに、厳しく陣をめぐらして居るとある。
周瑜は聞くと、輿(こし)の中で、身をもがいて叫んだ。
「降ろせつ。輿の中よりわしを出せ。猪口才(チヨコザイ)な孔明の手先、蹴ちらして通る」
けれど病輿(ビヤウヨ)はどん/\道を更(か)へて他の方向へ走つてゐた。孫瑜の命令で、夏口にある船の一艘をべつな江岸へ呼び、そこから辛うじて周瑜の身を船へ移した。
するとそこへ、荊州の軍使と称する者が来て、一書を、周瑜へ渡して去つた。——見れば孔明の手蹟である。
その文に曰(い)ふ。
漢ノ軍師中郎将諸葛亮、書ヲ大都督公瑾(周瑜)先生ノ麾下ニ致ス。
亮、柴桑ノ一別ヨリ、今ニ至ツテ恋々ト忘レズ。聞ク足下、西川(セイセン)(蜀)ヲ取ラント欲スト。亮思ヘラク、不可ナリ。益州(蜀)民ハ強クシテ地ハ険。劉璋ノ暗弱ヲ以テシテモ守ルニ足レリ。今、師(いくさ)ヲ挙ゲテ遠征シ、転運万里、全功ヲ収メント欲シ、呉(ゴ)起(た)ツト雖(いへど)モソノ規(キ)ヲ定ムルコト能(あた)ハザラン。
抑(そも)、天下如何ナル愚人ゾ。曹操ガ赤壁ノ大敗ヲ見テ、亦(また)、ソノ愚轍(グテツ)ヲ敢(アへ)テ趁(を)ハントスルトハ。
今、天下三分シ、操ハソノ二分ヲ占メ、猶(なほ)、馬ヲ蒼海ニ水(みづ)飼ヒ呉会ニ兵ヲ観ンコトヲ望ム。時呉兵ヲシテ遠伐ニ赴カシメ、自ラ守ルヲ虚シウスルハ長計ニ非ザル也。操ガ兵一度至ラバ、江南粉滅サレ尽サン。
坐シテ視ルニ忍ビズ、コゝニ告グ。幸ニ照覧ヲ垂レヨ。
読み下してゆくうちに、周瑜は恨気(コンキ)胸に塞がり、手はわなゝき、顔色も壁土のやうになつてしまつた。
「うゝむつ……」
と、太く、苦しげに、長嘆一声すると、急に、
「筆、筆、筆。……紙を。硯(すゞり)を」
と、さけび、引つ奪(た)くるやうに持つと、必死の形相をしながら、何か懸命に書き出した。文字はみだれ、墨は散り、文は綿々と長かつたが、遂に、書き終るや否、筆を投げて、
「噫(あゝ)、無念つ……。無情や人生。皮肉なることよ宿命……。天すでに、この周瑜を地上に生ませ給ひながら、何故また、孔明を地に生じ給へるや!」
云ひ終ると、昏絶して、一たん眼を閉ぢたが、ふたゝび刮(カツ)と見ひらいて、
「諸君。不忠、周瑜はこゝに終つたが、呉侯を頼む。忠節を尽して……」
忽然、うす黒い瞼を落し、まだ三十六歳の若い寿(ジユ)に終りを告げた。時、建安十五年の冬十二月三日であつたといふ。
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