吉川英治『三国志(新聞連載版)』(772)荊州往来(四)
昭和17年(1942)3月29日(日)付掲載(3月28日(土)配達)
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易々諾々(イヽダク/\)である。糜竺は命ぜられる儘(まゝ)、倉皇(サウクワウ)として帰つて行つた。
そのあとから周瑜もすぐ上陸した。江上一帯に、兵船の備へを残して、陸路、荊州へ赴いた。
ところが、公安まで来ても、劉玄徳の出迎へはおろか、小役人の迎へにも会はない。
「荊州までどのくらゐあるか。あとの道程(みちのり)は?」
心に怪しみながら周瑜がたづねると、
「もうわづか十里しかありませぬ」
と、彼の幕下たちも眉をひそめ合つてゐる。
「はて。いぶかしい?」
と、休息してゐるところへ、先手の斥候(セキコウ)が馬をとばして来て、
「何か、様子が変です。はるか見渡すかぎり、人の影も見えず、荊州の城を望めば、まるで葬式のやうに、二(ふた)旒(ながれ)の白旗が〔しよんぼり〕なびいてゐるだけなんです」
周瑜は、聞くや否、
「甘寧、丁奉と来い」
と、精兵千騎だけをつれて、まつしぐらに荊州城下まで馳(か)け通した。
「孔明も、馬鹿ではない。或は、こつちの肚を察して、逸(いち)早く、城を明けて逃げ出したのかも知れない」
周瑜が八九分まで信じてゐたものは、さういふ見解だつた。ところが城門へ来て、門を開けよと呼ばはると、中から、
「何者だつ」
と、案外、気の強い声がした。
「呉の大都督周瑜である。なぜ劉皇叔には、出迎へに出ないかつ」
大音に叱り返すと、とたんに城頭の白旗(ハクキ)がばたんと仆(たふ)れた。そして忽ち、それに代つて炎のやうな紅(くれなゐ)の旗が高々と揚げられ、
「周都督、何しに来たか」
と、いふ者がある。
仰いで天を見ると、櫓(やぐら)の上に、一人の大将の姿が小さく見えた。
「オヽ趙雲ではないか。玄徳はいかゞしたか」
「知らず!」
と、嚙んで吐き出すやうに、趙雲は下を覗(のぞ)いて云つた。
「わが軍師孔明には、すでに足下(ソクカ)が——道ヲ借リテ草ヲ枯ラス——の計を推量し、それがしをこゝの番に附け置かれた。他所(よそ)をさがし給へ。それとも、城中の趙雲に御用があるか」
と、槍を頭上に翳(かざ)して、今にも投げ落さうとする姿勢を示した。
周瑜は愕(おどろ)いて、馬を引つ返した。城下の町角から「令」の一字を書いた旗を背にした一騎が近寄つて来て、
「いよ/\、怪しいことばかりです。いま諸方の巡警からしらせて来たところによると、関羽は江陵より攻来り、張飛は柹帰(シキ)より攻来り、また、黄忠は公安の山陰から現れ、魏延は孱陵(センリヨウ)の横道から殺到しつゝあるといふことです。兵数その他、事態はまだよく分りませんが、なにしろ喊(とき)の声は、遠近にひびき、さながら四方五十餘里まるで敵に埋つたかのやうな空気で——そこらの部落や下民共まで、口々に玄徳孔明の叫びを真似て——呉客周瑜を生捕りにしろ、周瑜をころせ——と喚(をめ)き伝へてゐるさうです」
「うゝむつ……」
〔がば〕と、周瑜は、馬のたてがみに、俯(う)つ伏してしまつた。
せつかく癒りかけてゐた金瘡(キンサウ)こと/゛\くやぶれて、ぱつと、血を吐ゐたかと思ふと、その儘(まゝ)くたつと、馬の背から落ちてしまつた。
諸将は、仰天して、周瑜の身をかゝへ、辛(から)くも救命薬を与へて蘇生させた。ところへ又、物見が来て、
「孔明と玄徳は、ついこの先の山上に、莚(むしろ)を展(の)べ、幕(とばり)をめぐらし、酒を飲んで、さながら遊山でもしてゐるやうに、楽しみ興じてゐる態(テイ)です」
と、告げたので、周瑜はいよいよ歯(は)咬(が)みをして、無念の拳(こぶし)をにぎりしめた。
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