吉川英治『三国志(新聞連載版)』(771)荊州往来(三)
昭和17年(1942)3月28日(土)付掲載(3月27日(金)配達)
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玄徳は、異議なく、協力を誓つた。
その前に、孔明から云はれてゐたので、むしろ歓びを現して、
「呉の兵力をもつて、蜀を攻めていたゞければ、これに越した事はない。御軍勢の領内通過は、当然なことで、許すも許さないもありません。かう好都合に談(はなし)が纏(まと)まつたのも、みな足下(ソクカ)のお骨(ほね)折(をり)と申さねばなるまい」
と、魯粛に恩を謝した。
(このたびこそ上首尾に)
魯粛も心ひそかに喜悦して、早速、柴桑へ帰つて行つた。玄徳はそのあとで孔明に訊ねてゐた。
「呉の軍勢をもつて、蜀を攻め、それを取つて、この玄徳に与へようとは、いつたいどういふ呉侯の肚(はら)だらうか」
「いや、呉侯の肚ではありますまい。又しても周瑜の策です。愍(あはれ)むべし、自分の策のために、周瑜の死際はいよ/\近づいて来たやうです」
「なぜ、さう云へるか」
「魯粛はまだ呉の南徐まで帰つたのではありません。途中、柴桑に寄つて、周瑜に会ひ、彼の策をその儘(まゝ)持つて、再びこれへ来たものです」
「なる程。往来の日数から数へても、ちと早過ぎるとは思つたが」
「蜀を攻めるを名として、荊州の通過を申し入れて来たのは、明らかに周瑜の考へさうな謀略で、実は荊州を取るつもりです」
「それを知りつゝ、なぜ軍師には彼の要求を容れよと、予にすゝめたのか」
「時節到来です。お案じ遊ばすな」
趙雲をその場に呼び、何事か策をさづけて走らす一方、孔明自身も、やがて来るべきものに対し、万端の備へをしてゐた。
一方。
魯粛の返辞を聞いて、柴桑の周瑜は、手を打つてよろこんだ。そして快然と、かう云つた。
「今度こそ、〔して〕やつたり、初めて孔明をあざむき得たぞ!」
魯粛は、船をいそがせて、南徐に下り、呉侯に会つて、云々と報告した。
「さすがは周瑜、これほどな智謀の持主は、呉はおろか、当代(タウダイ)何処(どこ)にもをるまい。玄徳、孔明の運命も、こゝに極まつたり」
と、呉侯の共鳴もすばらしいものである。直(たゞち)に、早打をやつて、周瑜を励まし、また程普を大将として、彼を助けしめた。
このとき周瑜は、瘡(きず)もあらかた平癒して、濃水(ノウスヰ)(ママ)も止まり、歩行には不自由ない程度になつてゐたので、彼は勇躍身を鎧(よろ)つて、みづから戦陣に臨むべく決心した。
甘寧を先手に、徐盛、丁奉を中軍に、凌統、呂蒙(ロモウ)(ママ)を後陣として、総勢五万、水陸軍に編制し、彼自身は、二万五千をひきゐて柴桑を船で出た。
時の記録には、彼の心事を描いて、
心ノウチ仕(し)済(すま)シタリト打(うち)ヨロコビ
笑ヒ楽ンデ、溯江(ソカウ)数百里、夏口マデ来リケル。
と、ある。
おそらく彼の心境はさうだつたらうと思はれる。夏口へ着くと、彼は土地の役人に訊ねた。
「たれか荊州から迎へは来てゐないか」
役人は叩頭(コウトウ)して答へた。
「劉皇叔の命をおび、糜竺と仰せられる大官が来ていらつしやゐます」
間もなく、江頭(カウトウ)から小舟が漕いで来た。糜竺であつた。
「御遠征、まことに御苦労にぞんじます。主人もすでに、御軍需の用に供へる金銀兵糧の用意を済まし、また、諸軍の御慰労なども、どうしたがよいかと、心をくだいて居られます」
船上に登つて、糜竺が、かう拝伏して告げると、周瑜は、尊大に構へて、
「劉皇叔には、今どこに居らるゝか」
と、質(たゞ)し、すでに荊州の城を出て、貴軍の到着を待つてゐると聞くと、周瑜は、
「こんどの出陣は、蜀を取つて、皇叔に進上せん為であつて、まつたく貴国の為に働くのであるから遠路を来たわが将士には、充分なもてなしと礼を以て迎へられよ」
と、特に云つた。
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