吉川英治『三国志(新聞連載版)』(769)荊州往来(一)
昭和17年(1942)3月26日(木)付掲載(3月25日(水)配達)
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周瑜は、その後も柴桑にいて瘡(きず)養生をしてゐたが、勅使に接して、思ひがけぬ叙封の沙汰を拝すると、忽ち病も忘れて、呉侯孫権へ、次のやうな書簡をしたゝめて送つた。
天子、詔(みことのり)を降して、いま不肖
周瑜に、南郡の太守に封ずと
の恩命がありましたが、南郡
には、すでに玄徳あり、臣の
得る地は一寸もありません。
しかもその玄徳は今、主家の
御妹君の婿たり。臣、朝命に
忠ならんとすれば、主家の親
族に反(そむ)く科(とが)を得べく、主家に
忠ならんとすれば、朝命にも
とることゝ相成ります。
ねがはくば、周瑜の心事を憐
み給ひ、君公の御賢察を仰ぎ
奉る——
孫権は近頃、呉の南徐(ナンジヨ)(南京附近)に都してゐたが、すぐ魯粛を呼んで云つた。
「困つたことになつた。周瑜からはかう云つてくるし、玄徳はわが妹婿となつたのを名として、いよ/\荊州を呉へ回(かへ)す肚などあるまい」
「いえ、蜀の国を取つたら、荊州はお回(かへ)し申すと、孔明も連判して、固い證約を取つてありますから」
「黙れ、黙れ。そんな反故(ほご)を信用して、彼が蜀の国を取るまで待つくらゐなら、何も心配はせん。もし玄徳が一生のうちに蜀へ入ることが出来なかつたらどうするか」
「恐れ入ります。そこ迄(まで)は」
「それみい。其(その)方(ハウ)とて、必ずさういふ時期があるとは保證できまい。ましてや彼には孔明といふ者が附いてゐる以上、素直に荊州を渡すわけはない」
「私の責任です。願はくばもう一度、荊州へ私をお遣(つか)はし下さい」
「きつと話をつけて来るか」
「あくまで、談じて参ります」
茲(こゝ)、各地の合戦は、すこし歇(や)んでゐるやうだが、四囲の情勢は依然わるい。到底、このまゝ天下が平和に入るやうな兆候は、何を観ても考へられない。
荊州を中心に、今や玄徳は、孔明を師とし、関羽、張飛、趙雲などを翼尾として、日夜、軍馬を調練してゐた。軍事そのものばかりでなく、政策、経済、交通、あらゆる部門に、次の必然なるものゝ到来に備へてゐた。
「亮軍師。また、魯粛が呉から使ひに来たさうだが、会つたらどう云はう」
玄徳は、孔明に諮つた。
孔明はかう教へた。
「もし魯粛が、例の問題を持出して、荊州の事を云ひ出したら、君には、声を放つて、お哭(なげ)きになられたがよいでせう」
「そして?」
「あとは私が、よいやうに、そこの所を計らひますから」
やがて魯粛は、これへ着いて、堂上に迎へられ、且(かつ)上席に請(セウ)ぜられた。
「恐縮です。魯粛如きに、上座をお譲り遊ばすとは」
「なぜ、御遠慮あるか」
「以前はともあれ、今はわが主君の婿君たるあなた様を措いて、臣下の私が上に坐るいはれはありません」
「いや、旧交を思うての事、左様に謙譲にせずともよい」
「でも、礼儀だけは」
と、物堅い魯粛は、飽(あく)まで辞退して、横に席を取つた。
だが、答礼も終つて、いよ/\用件の段階に入るとさすがにその謙虚も払つて、
「呉侯の御(ご)命(メイ)をうけて、再度、それがしがこれへ参つた仔細は、疾(と)く御推察であらうが、専ら荊州譲渡の事を議せん為であります。すでに呉家と劉家とは、御婚姻に依つて、まつたく一和同族の誼(よし)みすらある今日、なほ久しく借(かり)給うてお還(かへ)しなきは、世上の聞えにも、将来の御為にも、おもしろからぬ事かと存ぜられる。この度はぜひそれがしの顔もたてゝ、御快く御返却ねがひたいと思ひます」
魯粛が、厳重な語気を裡(うち)につゝんで、さう切出すと、劉玄徳は、彼のことばの半(なかば)から面(おもて)を掩(おほ)つて、よゝと、声を洩らして哭(な)き出した。
魯粛は愕(おどろ)いて、
「……これは?」
と、ばかり玄徳の哭く様子を見まもつてゐた。
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