吉川英治『三国志(新聞連載版)』(768)文武競春(四)
昭和17年(1942)3月25日(水)付掲載(3月24日(火)配達)
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大宴満酔の折も折、席も席であつたが、
「時務は怠れない」
と、曹操は、早打の者を、すぐ階下によびよせて、
「何事やある?」
と、許都からの報(しらせ)を訊いた。
「まづ、相府の書を」
と、使は、官庁からのそれを曹操へ捧(ホウ)じてから、あとを口上で告げた。
「湖北へお出ましの後、江南の情報が、しきりと変を伝へて来ました。それによると、呉の孫権は華欽といふものを使者に立て、玄徳を荊州の太守に推薦し、一方、天子に表を上(たてまつ)つて、御ゆるしを仰いでゐます。それも、事後承諾のかたちにです。——のみならずまた彼孫権は、どうしたのか旧怨を捨て、自分の妹を玄徳の夫人として嫁がせ、その婚姻の引出物に、荊州九郡の大半も、玄徳に属すものと成り終つたといふことです。要するに玄、孫、二者の結合は、当然、わが魏へ向つて、何事か大きな影響を及ぼさずにはゐないものと——許都の府に於ても、みな心痛の儘(まゝ)、かくは早打をもつて、お耳にまで達しに参りました」
「なに。呉侯の妹が、玄徳へ嫁いだ……?」
曹操は思はず、手に持つてゐた筆を取落した。
その愕(おどろ)きが、いかに大きく、彼の心を搏(う)つたかは、とたんに手脚を張つて、茫然と、空の雲へ向けてゐた放心的な眼にも明らかであつた。
程昱が、筆を拾つて、
「丞相、どう遊ばしました。敵軍の重囲におち給うて、矢に中(あた)り石に打たれても、なほ顚倒(テンタウ)されたことのない丞相が……?」
「程昱、これが驚かずにゐられるか。玄徳は人中の龍だ。彼、平生に水を得ず、伸びんとして遂に伸び得ず、深く淵にゐたものが、いま荊州を獲たとあつては、これ龍が水に会うて大海へ出たやうなもの……豈(あに)、驚かずにゐられよう」
「まことに、晴天(セイテン)一朶(イチダ)の雲です。けれど、彼の計を、更に計るの策はありませぬか」
「水と龍と、相結んだものを、断(き)り離(はな)つのは難しいだらう」
「程昱はさほど迄(まで)には思ひません。なぜならば、元来、孫権と玄徳とは、水龍二つの如く、性の合つたものではありません。むしろ孫権としては、玄徳を憎むこと強く、これを謀らう/\としてゐる気(け)振(ぶり)が見える。およそこんどの婚儀も、何か底に底ある事情からでせう。——故に、水龍相搏たせ、二者をして、争ひ闘はせる手段が、絶無とはいへません」
「聞かう。——その計は」
「愚存を申しますれば、何といつても孫権が恃(たの)みとしてゐるのは、周瑜です。また、重臣の雄なるは程普でせう。……ですから丞相には、早速、許都へお帰りあつて、まづ呉の使の華欽にお会ひ遊ばし、華欽を当分、呉へ帰さないことです」
「そして」
「別に勅を仰いで、周瑜を南郡の太守に封じます。また程普を江夏の太守とします。——江夏、南郡ともに、今なほ玄徳の領有してゐる所ですから、これを呉使華欽に伝へても恐らくお受けしますまい。ですから華欽には更に官職を与へてしばし朝廷にとゞめおき、別に勅使を下して、これを呉の周瑜、程普に伝へます。かならず拝受感激いたすに違ひありません」
「……むむ。さうか」
曹操は、程昱が考へたところのものを、もう結果まで読みとつてゐた。
その夕、彼は、銅雀臺の遊楽も半に、漳河の春にも心を残しながら、にはかに車駕をとゝのへて許昌の都へ帰つて行つた。
そして、呉使華欽に、大理寺少卿(ダイリジセウケイ)といふ官爵を与へ、彼を都へとどめておく一方、勅命を乞うて、程昱の献策どほり、勅使を呉の国へ馳せ下した。
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