吉川英治『三国志(新聞連載版)』(767)文武競春(三)
昭和17年(1942)3月24日(火)付掲載(3月23日(月)配達)
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その時、楽部(ガクブ)の伶人(レイジン)たちは、一斉に音楽を奏し、天には雲を闢(ひら)き、地には漳河の水も答へるかと思はれた。
水陸の珍味は、列座のあひだに配され、酒はあふれて、臺(タイ)上臺下の千杯万杯に、尽(つく)ることなき春を盛つた。
「武府の諸将は、みな弓を競つて、日頃の能をあらはした。江湖の博学、文部の多識も、何か、佳章を賦(ふ)して、けふの盛会を記念せずばなるまい」
酒(さけ)酣(たけなは)の頃、曹操が云つた。
万雷のやうな拍手が轟く。王朗、字(あざな)は景興(ケイコウ)、文官の一席から起(た)つて、
「鈞命(キンメイ)に従つて、銅雀台の一詩を賦(ふ)しました。つゝしんで賀唱(カシヤウ)ゐたします——」
銅雀台高ウシテ帝畿(テイキ)壮(さかん)ナリ
水明カニ山秀イデ光輝ヲ競フ
三千ノ剣佩(ケンパイ)黄道ヲ趨(はし)リ
百万ノ貔貅(ヒキウ)ハ紫微(シビ)ニ現ズ……
と朗々吟じた。
曹操は、大いに興じて、特に秘愛の杯に酒をつぎ、
「杯ぐるみ飲め」
と、王朗に与へた。
王朗は、酒を乾(ほ)して、杯(さかづき)は袂(たもと)に入れて退がつた。文官と武官と湧くごとく歓呼した。
すると、また一人、雲箋(ウンセン)に詩を記して立つた者がある。東武亭侯(ボウブテイコウ)侍中尚書(ジチウシヤウシヨ)、鍾繇(セウヨウ)、字(あざな)は元常(ゲンゼウ)(ママ)であつた。
この人は、当代に於て、隷書を書かせては、第一の名人といふ評がある。すなはち七言八絶を賦(うた)つて——
銅雀臺ハ高クシテ上天ニ接ス
眸(め)ヲ凝セバ遍(あまねく)ス旧山川
欄干ハ屈曲シテ明月ヲ留(とゞ)メ
窓戸ハ玲瓏トシテ紫烟ヲ圧ス
漢祖ノ歌風ハ空シク筑ヲ撃チ
定王ノ戯馬(ギバ)謾(みだり)ニ鞭ヲ加フ
主人ノ盛徳ヤ堯舜ニ斉(ひと)シ
願ハクバ昇平万々年ヲ楽マン
と、高吟した。
「佳作、佳作」
曹操は激賞して措(お)かなかつた。そして彼には、一面の硯(すゞり)を賞として与へた。拍手、奏楽、礼讃の声、臺上臺下に盈(み)ちあふれた。
「ああ、人臣の富貴、いま極まる」
曹操は左右の者に述懐した。彼はかういふ中でも反省した。
「——とは云へ、もしこの曹操が出なかつたら、国々の反乱はなほ熄(や)まず、かの袁術の如く、帝王を僭称(センシヨウ)するものが幾人も輩出したらう。幸に、自分は袁紹、劉表を討平し、身は宰相の重きにあるといへ、或(あるひ)(ママ)は疑ひを抱(いだ)いて、曹操も天下を纂奪(サンダツ)する野心があるのでないかなどと云ふ者があるかもしれぬが、われ少年の日、楽毅(ガクキ)之(の)伝(デン)を読むに——趙王が兵を起して燕国(ヱンコク)を討たうとしたとき、楽毅は地に拝伏し、その昔日(かみ)、臣は燕王に仕へり、燕を去るも燕王を思ふこと、なほ今日、あなたに仕へる真心と少しも変りはない。むしろ死すとも、不義の戦はすまじと哭(な)いて云つたといふ。——楽毅伝のあの一章は少年の日、頭(かしら)にふかく沁(し)みこんで今日になつても、この曹操はそれを忘れることができない。自分が四隣の乱をしづめ、府にあつては宰相の権をにぎり、出ては兵馬を司るのも、かうしなければ、四方の暴賊はみな私権を張り、人民はいつまで戦禍の苦しみから救はれず、秩序は乱れるばかりで、遂には無政府状態に墜(お)ち入り、当然、漢朝の天下も亡びるに至ることを憂ひたからに他ならない。——わが文武の諸将は、みなよく曹操の旨を諒せよ」
彼は、侍坐の重臣に、さう語り終ると、また数杯をかたむけて、面色大いに薫酔を発した。
「筆と硯をこれへ」
彼もまた、雲箋を展(の)べて、即興の詩句を書いた。そしてそれへ、
吾レ高台ニ独歩シテ兮
俯シテ万里ノ山河ヲ観ル
といふ二句まで書きかけたところへ、忽ち、一騎の早打が、何事かこれへ報(し)らせに飛んで来た。
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