吉川英治『三国志(新聞連載版)』(765)文武競春(一)
昭和17年(1942)3月20日(金)付掲載(3月19日(木)配達)
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冀北(キホク)の強国、袁紹が亡びてから今年九年目、人文すべて革(あらた)まつたが、秋去れば冬、冬去れば春、四季の風物だけは変らなかつた。
そして今し、建安十五年の春。
鄴陽城(ゲイウヤウジヤウ)(湖北省)(ママ)の銅雀臺は、足かけ八年にわたる大工事の落成を告げてゐた。
「祝はう。大いに」
曹操は、許都を発した。
同時に——造営の事も終りぬれば——とあつて、諸州の大将、文武の百官も、祝賀の大宴に招かれて、鄴城の春は車駕(シヤガ)金鞍(キンアン)に埋(うづ)められた。
そもそも、この漳河(シヤウガ)のながれに臨む楼臺を「銅雀臺」と名づけたのは、九年前、曹操が北征してこゝを占領した時、青銅の雀を地下から掘り出したことに由来する。
城から望んで左の閣を玉龍臺といい、右の高楼を金鳳臺といふ。
いづれも地上から十餘丈の大厦(タイカ)である。そしてその空中には虹のやうな反橋(そりばし)を架け、玉龍金鳳を一(イツ)廓(クワク)とし、それを繞(めぐ)る千門万戸も、それ/゛\後漢文化の精髄と藝術の粋を凝(こら)し、金壁(キンペキ)銀砂(ギンサ)は目もくらむばかりであり、直欄(チヨクラン)横檻(ワウカン)の珠玉は日に映じて、
「こゝは、この世か。人の住む建築か」
と、佇む者をして恍惚と疑はしめるほどだつた。
「いさゝか予の心に適(かな)ふものだ」
由来、英雄は土木の工を好むといふ。
この日、曹操は、七宝の金冠をいたゞき、緑錦(リヨクキン)の袍(ひたゝれ)を着、黄金(こがね)の太刀を玉帯に佩いて、足には、一歩々々燦爛(サンラン)と光りを放つ珠履(シユリ)を穿(は)いてゐた。
「規模の壮大、輪奐(リンクワン)の華麗、結構とも見事とも、言語に絶して、申し上げようもありません」
文武の大将は彼の臺下に侍立した。そして万歳を唱し、全員杯を挙げて祝賀した。
「何かな、この佳(よ)い日、興じ遊ぶことはないか」
曹操は考へてゐるふうであつたが、やがて左右に命じて、秘蔵の赤地錦(あかぢにしき)の戦袍(ひたゝれ)を取寄せ、それを広苑(ひろには)の彼方なる高い柳の枝に懸けさせた。そして武臣の列に向ひ、
「各々の弓を試みん。柳を距(へだ)つこと百歩。あの戦袍(ひたゝれ)の赤い心当(むねあて)を射たものには、すなはちあの戦袍を褒美にとらすであらう。われと思はん者は出て射よ」
と、云つた。
「心得て候ふ」
とばかり、自ら選手を希望して出た人々は、二行に列を作つて、柳に対した。曹氏の一族はみな紅袍を着し、外様の諸将はすべて緑袍を着てゐた。
選手はみな馬に乗り、手に彫弓(テフキウ)(ママ)をたづさへて、合図を待つ。
曹操はふたゝび告げた。
「もし、射損じたものは、罰として、漳河の水を腹いつぱい呑ますぞ。自信のないものは、今のうちに列から退(さ)がれ。そしてこれへ来て罰盃を飲め」
誰(たれ)も、退かなかつた。
馬は勇み、人々の意気は躍る。
「よし!」
と曹操の言下に、合図の鉦鼓(かねつゞみ)が鳴り渡つた。とたんに一人、馬を出し、馬上に弓矢をつがへた。
諸人これを見れば、すなはち曹操の甥で、曹休(サウキウ)字(あざな)は文烈(ブンレツ)といふ若武者。一(ひと)鞭(むち)して広苑(ひろには)の芝生を奔らすこと三(サン)遭(サウ)、柳を百歩距つて駒足をひたと停め、心ゆくばかり絃(つる)をひき絞つて丁ツと放つた。
見事。矢は的(まと)を射た。
「ああ!射たり、射たり」
と、感嘆の声は堂上堂下に湧いてしばし拍手は鳴りやまない。
その間に、近侍のひとりは、柳の側へ走つて、かけてある紅(くれない)(ママ)の袍(ひたゝれ)を下ろし、それを曹休に与へようとすると、
「待ち給へ。丞相の賞は、丞相の御一族で取る勿(なか)れ。それがしにこそ与へ給へ」
と呼ばはりながら、はや馬をすすめて、馬馴らしに芝生を駈け廻つてゐる一将がある。
誰(たれ)かと見れば、すなはち荊州の人文聘、字(あざな)は仲業(チウゲフ)であつた。
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