吉川英治『三国志(新聞連載版)』(763)周瑜・気死す(一)
昭和17年(1942)3月18日(水)付掲載(3月17日(火)配達)
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孔明の従へて来た荊州の舟手の兵は、みな商人(あきうど)に姿を変へてゐた。玄徳と夫人、また随員五百を各々の舟に収容すると、忽ち、櫓櫂(ロカイ)を操り、帆を揚げて、入江の湾口を離れた。
「やあ、その舟返せ」
呉の追手は、遅れ走(ばせ)に来て、あとの岸に犇(ひし)めき合つてゐた。
孔明は一(イツ)舟(シウ)の上からそれを指さして、
「すでにわが荊州は一国たり。一国が一国を謀るもよし攻めるもよいが、美人を以て人を釣るやうな下策は餘りにも拙劣極まる。汝等、呉へ帰つたら周瑜へ告げよ。ふたたびかゝる錯誤はするなと」
と、岸へ向つて云つた。
多くの舟から、どつと嘲笑が揚つた。
それに答へて岸からは、雨のやうに矢が飛んで来たが、みな江波に落ちて藁(わら)のやうに流されてしまつた。
然(しか)し、江上を数里進んで、ふと下流を望むと、追風に満帆を張つた兵船が百艘ばかり見えた。中央に「帥(スヰ)」の字の旗をたてゝ、明(あきら)かにそれには大都督周瑜が坐乗してゐるらしい。そして左には黄蓋の旗じるしが見え、右には韓当の船が並び、その陣形は、恰(あたか)も鳳翼(ホウヨク)を開くやうに迫つて来た。
「おゝつ、呉の大船隊が」
と、玄徳を初め人々がみな色を失ふと、孔明は、舟手の者にすぐ進路を指揮し、
「かねて豫測されてゐたこと。お愕(おどろ)きには及びません」
と、速(すみや)かに岸へ寄せ、そこからは陸地を取つて逃げ奔(はし)つた。
当然、呉の水軍も、船をすてゝ陸地へ駈け上がつて来た。黄蓋、韓当、徐盛など皆、飛ぶが如く馬を早めて来る。
周瑜もその中にあつて、
「こゝはどの辺だ?」
と、諸将にたづねてゐた。
「黄州の境にあたります」
徐盛が答へた時である。忽然、鼓(つゞみ)の声が、四(シ)沢(タク)の静寂(しじま)を破つた。
一(イツ)彪(ペウ)の軍馬が、それと共に、山の陰から奔進して来る。見れば玄徳の義弟(おとと)関羽である。忽ち、八十二斤の青龍刀は周瑜の身に迫つて来た。
「すは。敵に何か、備へがあるらしいぞ」
急に、退きかけると、
「われこそ、黄忠」
「魏延を知らずや」
左の沢からも、右手(めて)なる峰からも、待ちかまへてゐた猛兵が、乱れ立つた彼の虚を衝いていよ/\駈け散らした。
呉の将士は、存分な戦ひもせずに、続々、討死を遂げた。周瑜は、上陸した元の所まで、馬に鞭打つて逃げのび、あわてゝ船へ身を移すと、その時、もう遠い先へ行つてゐる筈(はず)の孔明が、忽然と、一隊の兵を率ゐて、江岸に姿を現はし、大音に云つた。
周郎ノ妙計ハ天下ニ高シ
夫人ヲ添ヘ了(をわ)ツテ
又、兵ヲ折(くじ)ク!
それを二度も繰返して、一同にどつと笑ひ囃(はや)したので、周瑜は、勃然(ボツゼン)と怒つて、
「おのれ。その儀なれば、陸(くが)へ戻つて、もう一戦せん。諸葛亮、そこをうごくな」
と、地〔だんだ〕踏みながら、船を岸へ寄せろと呶(ど)鳴(な)つたが、黄蓋、韓当などは、味方はあらまし討たれ、残る士卒も戦意を喪(うしな)つてゐるのを見て、
「こゝが我慢のしどころです」
と、踠(もが)く周瑜を抱き止めながら、舟手の者に、
「帆を張りあげろ。早く船を中流へ出せ」
と、命じた。
周瑜はなほ、眦(まなじり)に血涙をたゝへて、
「無念。実に無念。かゝる恥をうけ、かゝる結末をもつて、何で、大都督周瑜たるものが、再び呉国へ帰れよう。おめ/\と呉侯にお目にかゝれよう。——おれは恥を知つてゐる!」
と、叫びながら、歯をギリ/\咬み鳴らしたと思ふと、その口から〔かつ〕と真つ赤な血を吐いて、朽木(くちき)仆(だふ)れに船底へ仆れてしまつた。
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