吉川英治『三国志(新聞連載版)』(762)凛々(りん/\)細腰(さいえう)の剣(けん)(三)
昭和17年(1942)3月17日(火)付掲載(3月16日(月)配達)
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追手の大将四人は、空しく夫人の車を見送つてしまつた。この時も趙雲は、一手の軍兵を持つて、最後まで四人の前に殿軍(しんがり)してゐたため、手出しはおろか、私語する隙間もなかつたのである。
「残念だな」
「だが、あの女(ニヨ)丈夫には、なんとも敵(かな)はん」
是非なく、四人は道を回(かへ)した。そして十数里も来た頃である。一(イツ)彪(ペウ)の軍馬と、颯爽たる大将が、彼方から来て呼びかけた。
「玄徳の行方は如何(いか)に」
「夫人はどこにをらるゝか」
見れば、呉の蔣欽。またもう一人は周泰である。
面目なげに、陳武が云つた。
「だめです……どうも」
「何がだめだ?」
「追ひついて捕へんとしましたが、夫人が云ふには、母公のおゆるしをうけて城を出たのだから、母公のおいひつけでなければ帰らぬと仰(おほせ)られます」
「何の。口巧者な。な、なぜ云はん。こちらは呉侯の厳命であるぞ」
「呉侯はわが兄。兄妹(はらから)の間のことを、臣下の分際で、何を差出がましく云ふぞとのみ、お耳にかけるふうもありません」
「えい、そんな事で、どうして追手の任が果せるか。かくなる上は、玄徳も、また主君の御妹たりとも、首にしてしまふ迄(まで)の事。見よ。この通り、仮借すなとて、主君孫権には、お手づから我等に剣をおあづけになつた!」
「やつ。御剣ですか」
「知れたこと。——思ふに玄徳の一行は大半が徒歩(かち)武者(ムシヤ)、馬を飛ばせば、ふたゝび瞬く間に追ひつかう。徐盛、丁奉のふたりは、早早先へ夬(わ)け廻つて周瑜都督にこの由を告げ、水上より早舟を下して江岸江上を塞がれい。われら四人は、陸路を追ひ詰め、かならず柴桑の附近に於て彼奴(きやつ)等(ら)を悉(こと/゛\)く網中の魚(うを)とするであらう」
刻々と迫るかういふ危険な情勢の中を、玄徳と夫人の車は、なほ逃げ落ちられる所まではと、たゞ一念一道を〔ひた〕奔(はし)りに急いでゐた。
いつか、柴桑の城市を横に見、その郊外を遠く迂回して、また道は江に沿つて来た。そして劉郎浦(リウラウホ)とよぶ一漁村まで辿(たど)りついた。
「船はないか」
「船は?船は?」
玄徳も趙雲も、こゝへ来て〔はた〕と、それに当惑した。
漁村らしいのに、どうしたのか船は一つも見当らない。のみならず、一方は渺々(ベウ/\)たる江水天に漲(みなぎ)り、前は自然の湾口をなして、深く彼方の遠い山裾まで続き、いづれへ渡るにも、舟便に依らなければ、もう何(ど)つ方(ち)へも進めない地形だつた。
「趙雲。趙雲」
「はい。御主君……」
「遂に虎口に落ちた。最後へ来たな」
「いや、まだ御失望は早過ぎます。今、例の錦の嚢(ふくろ)の最後の一つを開いてみました。すると。——劉郎(リウラウ)浦頭(ホタウ)(ママ)芦荻(ロテキ)答へン、博浪(ハクラウ)激波(ゲキハ)暫(しば)シ追ふモ漂ふ晦(くら)ム勿(なか)レ、破車(ハシヤ)汗馬(カンバ)茲(こゝ)ニ業ヲ終へテ一舟ニ会セン…そんな文があらはれました。察するところ軍師孔明には、必ず何か宜(よ)き遠謀があるにちがひありません。まづ/\、餘りお案じなさゐますな」
趙雲はなぐさめた。然(しか)し玄徳は黙然と灰色の空や水を見まはして、車のうちの夫人にものも云へず、暗然と佇んでゐるだけだつた。すると忽ち、山際(やまぎは)のあたりの夕雲が、むくむくと動き、鼓(つゞみ)の声や銅鑼(ドラ)が水に響いた。云ふまでもなく、茲(こゝ)に包囲を計つた追手の大軍だつた。
「おゝ如何(いか)にせむ」
玄徳は、身を揉んだ。
夫人も今はと覚悟して、簾のうちから飛び降りる。
「すは!」と、近づく喊(とき)の声、はや矢〔ばしり〕の響き。玄徳の少い手勢は、すでに色を失つて、四方へ逃げかけた。
すると、忽ち、郎浦湾(ラウホワン)の汀(なぎさ)、数里に亙(わた)る芦荻(ロテキ)が、いちどにザヽザヽと戦き立つた。見れば、葭(よし)や芦(あし)のあひだから帆を立て、櫓(ロ)を押出した二十餘艘の快足舟(はやぶね)がある。こなたの岸へ漕ぎ寄せるや否、
「乗り給へ。早く早く」
「皇叔。いざ疾(と)く」
と、手を打振つて口々に呼ぶ。
その中に、いま舟底から這ひ出して、共々呼んでゐた道服の一人物があつた。一目に知れる頭(かしら)の綸巾(リンキン)、すなはち諸葛孔明だつた。
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次回 → 周瑜・気死す(一)(2026年3月17日(火)18時配信)

