吉川英治『三国志(新聞連載版)』(758)朝の月(二)
昭和17年(1942)3月12日(木)付掲載(3月11日(水)配達)
ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
前回はこちら → 朝の月(一)
***************************************
「うゝむ。さうか……」とのみで、暫く沈思してゐたが、やがて玄徳は、肚(はら)を決めたものゝやうに面をあげ趙雲へ云つた。
「よし。帰らう」
「では、直(すぐ)に?」
「いや少し待て。妻(サイ)にもこの事を諮るから」
「それはいけません。御夫人に相談遊ばせば、お引(ひき)留(とめ)あるは必定です」
「そんな事はない。予にも考へがある」
玄徳は、奥へかくれた。
そして妻(つま)の室を訪ふと、夫人は良人(をつと)を迎へながらすぐ云つた。
「どうしても今度は荊州へお帰りにならねばなりませんか?」
「えつ……。誰(たれ)にそれを聞きましたか」
「ホホホ。あなたの妻ですのに、そのくらゐなことが分らないでどうしませう」
「はや承知なれば、多くも云はぬ。玄徳はすぐ帰国せねばならん。荊州は滅亡の危きに瀕してゐる。其方(そなた)の愛に溺れて、国を失うたとあつては、世の物笑ひ、末代までの廃(すた)れ者にならう」
「固(もと)よりです。武門の御身として、この期(ゴ)に、未練がましい事あつては、生涯人中に面(おもて)は出せません」
「よく云うてくれた。戦場に臨むからにはいつ討死を遂げるやもしれん。其方(そなた)とも又再会は期し難い。長春数旬の和楽、それも短い一夢になつた」
「なぜそのやうな不吉を仰せ出されますか、夫婦の契りはそのやうに儚いものではありますまい。また短いものとも思ひません。生ける限りは——いえいえ九泉の下までも」
「さは云へ、別れねばならぬ身をどうしよう」
「わたしも共に参りまする」
「えつ、荊州へ」
「当然では御座いませんか」
「呉侯が許すまい。母公も決して許されまいが」
「兄に知れたら大変でせう。けれど母には別に説く途(みち)があります。必ずお心を苦しめ給ふには及びません」
「どうしてこの呉城の門を出るか」
「もう今年も暮れます。元日の晨(あした)までお待ち遊ばせ。わたくしはその前に老母の許へ行つて告げませう。元日の朝(あした)、朝賀のため、江の辺(ほとり)に出て、先祖をお祀(まつ)りして参りますと——。母は信心家ですからさういふ事をするのは大変歓びます」
「なるほど、それは名案だが、其方(そなた)は猶(なほ)、それから先の途上の艱苦や、戦乱の他国へ行つても、後に呉を離れたことを悔ゐたり悲しんだりしないでゐられるだらうか」
「お別れして、ひとり呉に残つてゐたとて、何の楽しみがありませう。良人の側にさへゐるなら、炎の裡(うち)、水の中、どこにでも生(いき)甲斐があると信じます」
玄徳は嬉しさに涙を催した。彼はまた密かに趙雲を人無き所へよんで、妻の真情を語り、また策を囁(さゝや)いて、
「元日の朝、人目立たぬやう、長江の岸へ出て待つてをれ」
と、打合わせた。
趙雲は、念を押して、
「昔日の事をお忘れなく。必ずとも、孔明の計と齟齬(ソゴ)遊ばさぬやうに」
と云つて去つた。
明ければ、建安十五年となる。その元旦は、まだ暁闇(ゲウアン)深く、朝の月を残してゐたが、東天の雲には早、旭日の光がさし昇りかけてゐた。
吉例通り、呉宮の正殿には、除夜の万燈が点(とも)されたまゝ、堂には文武の百官がゐならび、呉侯孫権に拝賀をなし、万歳を唱へ、それから日の出と共に、酒を賜はることになつてゐる。
折もよし、人目は少い。
玄徳は夫人呉氏とともに、母公の宮房をそつと訪うて、
「では、これから江の畔(ほとり)へ行つて、先祖の祀(まつり)をして参ります」
と告げた。
玄徳の父母祖先の墳墓(つか)は、すべて涿郡にあるので、母公は、婿の孝心を嘉(よみ)し、それに従ふのは又、妻の道であると、機嫌よく夫婦(ふたり)を出してやつた。
***************************************
次回 → 朝の月(三)(2026年3月12日(木)18時配信)

