吉川英治『三国志(新聞連載版)』(756)鴛鴦陣(えんあうぢん)(四)
昭和17年(1942)3月10日(火)付掲載(3月9日(月)配達)
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終日(ひねもす)、歓宴の中に酔つても、玄徳の胸には、前途の茫々たる悩みがあつた。彼はふと、人なき庭園へ出て、酔(よひ)を醒まさんとしながら、発作的に、天を仰いでから祈念したのであつた。
「わが覇業成らぬものなら、この岩は斬れじ、わが生涯の大望、成るものならば、この岩斬れよ!」
発矢(ハツシ)、振り下ろした剣は、火華をとばし、見事、その巨岩(おほいは)を両断してゐた。
物蔭から人が歩いて来た。
「皇叔。何をされたのです?」
「おう、呉侯でおはすか。……実は、かうです。貴家の一門となつて、共に曹操を亡し得るなら、この岩斬れよ。然らずんば、この剣折れん——と天に念じて斬つたところ、この通り斬れました」
「ほ。……成程。では予も試みてみよう」
孫権も、剣を抜いた。同じやうに天へ祈念を凝(こら)して、大喝一声すると、剣石ともに響いた。
「やつ……斬れた」
「オヽ。斬れましたな」
この奇蹟は、後世の伝説となつて、甘露寺の十字紋石(ジフジモンセキ)とよばれ、寺中の一名物になつたといふ。
「どうです。皇叔、方丈へもどつて、更に杯を重ねようぢやありませんか。長夜の宴です」
「いや、座にたへません。餘り大酔したものですから」
「では、一(ひと)醒まししてからまた」
袖を連ねて、門外へ逍遙(セウエウ)に出た。
月小さく、山大きく、加ふるに長江の眺め絶佳なので、玄徳は思はず、
「あゝ、天下第一の江山(カウザン)」
と、嘆賞した。
後世、甘露寺の門に「天下第一江山」の額が掛けられたのは、彼の感嘆から出たものと云ひ伝へられてゐる。
玄徳は又、月下の江上を上下してゆく快舸(はやぶね)を見て、
「なるほど、北人はよく馬に騎(の)り南人はよく舟を走らすと世俗の諺(ことわざ)にもありましたが、実に、呉人は水上を行くこと平地のやうですね」
と、云つた。
孫権は、どう勘ちがひしたか、
「なに、呉の国にも、良い馬もあり、上手な騎手もゐます。一鞍当てませうか」
忽ち、二頭の駿馬(シユンメ)を曳き、ふたり轡(くつわ)をならべて、江岸の坡(つゝみ)まで駈けた。玄徳もよく走り、孫権もさすが鮮(あざや)かだつた。そして、相顧みて、快笑した。
呉の土民がこゝを後に「駐馬坡(チユウバハ)」と称(よ)んだわけは、この由謂(いはれ)に依るものだとか。
こんな事もあつたりして、玄徳はつい逗留十数日を過した。その間、試されたり、脅(おび)やかされたり、しかも日々夜々歓宴、儀礼、見物、招待づくめで、心身も疲れるばかりだつた。
趙雲子龍も心配顔だし、喬国老も案じてくれた。国老はそのため屢々(しば/\)呉の宮中に通つて母公をうごかし、孫権をなだめ、遂に吉日を卜(ボク)して、劉玄徳と呉妹君との婚礼を挙げるところまで漕ぎつけてしまつた。
華燭の典の当日まで、趙子龍は主君の側を離れず喬国老に頼んで五百の随員——実は手勢の兵も呉城に入れることの許可を得、間断なく玄徳の身を護つてゐたが、婚礼の夜いよいよ後堂の大奥へ花婿たる玄徳が入ることになると、さすがにそこから先の禁門には入れもしなかつたし、入れてくれとも頼めなかつた。
女宮(ニヨキウ)の深殿(シンデン)に導かれた玄徳は、気も魂もをのゝいた。
なぜなら閨室(ケイシツ)の廊欄には燈火をつらね、そこに立ちならぶ侍女(こしもと)から局々(つぼね/\)の女たち迄(まで)、みな槍(やり)薙刀(なぎなた)を携へて、閃々(セン/\)眼も眩(くら)むばかりだつたからである。
「ホ、ホ、ホ、ホ。貴人。何もそのやうに怖れ給ふことはありません。呉妹君はお幼(いとけな)き頃から、剣技をお好み遊ばし、騎馬弓矢の道がお好きなのです。決して貴人に危害を加へるためではありません」
房の内外を司る管家婆(クワンカバ)といふ役目の老女が、かう云つて、玄徳の小心を笑つた。
玄徳はほつとして、老女、侍女(こしもと)など千餘人の召使に、莫大な金帛(キンパク)を施した。
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