吉川英治『三国志(新聞連載版)』(754)鴛鴦陣(えんあうぢん)(二)
昭和17年(1942)3月7日(土)付掲載(3月6日(金)配達)
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母公にとつては、孫権よりも、その妹のはうが、可愛くて可愛くて、堪(たま)らないものらしいのである。
また、何といつても、この我儘(わがまゝ)な老女性には、敵国を謀るなどゝいふ問題には興味もなかつた。それよりは、ひとり息女(むすめ)の盲愛のはうが、遙(はるか)に大きかつた。
だから、かりそめにも、その息女を生贄(いけにえ)として遂げやうとする謀略と聞いては、それが呉国の為であるとか無いとかなどは問題でなく、頭から老(おい)の感傷と怒りを震はせて、
「成りません、成りません。誰(たれ)が何といはうと、むすめの一生を誤まらすやうな事は、わしの眼の黒いうちは断じてなりません。そんな事をもし周瑜がすゝめたのなら、周瑜は自分の功のために、主家のむすめを売る憎い人間ぢや。わしが命じる。すぐ周瑜を斬つておしまひ!」
といふ権〔まく〕であつた。
(手がつけられない——)
と、痛嘆を嚥(の)んでゐるものゝ如く、孫権はたゞ老母の血相に黙然としてゐた。
しかも喬国老までが母公と同意見で、
「いやしくも呉侯呉妹の御兄弟が、婚礼に事よせて、玄徳を殺したなどと聞えては、たとひ天下を取らうと、民心は服しまい。呉の国史に泥を塗るだけぢや」
と、周瑜の計に反対し、それよりも、この際やはり玄徳を婿と定めて、彼の帝系たる家筋とその徳望を味方に加へ、常に呉の外郭にその力を用ひたはうが賢明ではあるまいかと、思ふところを述べた。
ところが、母公としては、それも気のすゝまない顔で
「聞けば、劉玄徳とやらは、年も五十路(いそぢ)といふではないか。何でまだ世の憂き風も知らぬあのむすめを、他国のそんな所へ、しかも後添(のちぞへ)になど嫁(や)れませうぞ」
と、云つてみたが、喬国老が、頻(しき)りに、
「いや/\、よく考へてごらんあれ。年齢(とし)の少い者にも老人があるし、年は老(と)つても壮者をしのぐ若さの人もある。劉皇叔は、当代の英雄、その気宇はまだ青春です。凡人並に、年の数で彼を律することは当りません」
と、説いたので、やゝ心をうごかし、それでは明日、その玄徳を一目見て、もし自分の心にかなつたら、むすめの婿(むこ)としてもいゝが——と云ひ出した。
孫権はもとより孝心の篤い人なので、心の裡(うち)では煩悶したが、老母の意志には少しも逆らふことが出来ない。その間に、母公と喬国老とは、明日の対面の場所や時刻まで極(き)めてしまつた。
場所は城西の名刹(メイサツ)甘露寺。——喬国老はいそ/\邸(やしき)へ帰ると、すぐ使を出して、玄徳の客館へ旨を伝へに遣(や)つた。
事、志とちがつて来たので、孫権は一夜煩悶したが、ひそかにこれを呂範へ相談すると、呂範は事もなげに片づけて云つた。
「何も、それならそれで、よろしいではありませんか。そつと、大将(タイシヤウ)賈華(カククワ)(ママ)へお命じなさい。甘露寺の廻廊の陰に、屈強な力者(リキシヤ)や剣客の輩(ともがら)を選(よ)りすぐつて、三百人も隠しておけば大丈夫です。——そしてよい機(しほ)に」
「む、む。絶好な場所だ。さうしよう。……だが呂範、もし母上と玄徳と対面中に、母上が、彼の人物を見て心にそまぬやうだつたら、すぐ殺(や)つてくれい」
「もし、母公のお心にかなつたやうな御容子のときは」
「そんな事はないと思ふが……もしさう見えたら……さうだな、時を措いて、母上のお気持が彼に対して変るまで待たう」
次の日——早朝。
呂範は、媒人(なかうど)役として、当然、玄徳の客館へ、その日の迎へに出向いた。
玄徳は、細やかな鎧の上に、錦の袍(ひたゝれ)を着、馬も鞍も華やかに飾つて、甘露寺へ赴いた。
趙雲は、五百の兵をつれて、それに随行した。甘露寺では、国主の花聟(はなむこ)として、一山(イチザン)の僧衆(ソウシウ)が数十人の大将と迎へに立ち、呉侯孫権を初め、母公、喬国老など、本堂から方丈に満々(みち/\)て待ちうけてゐた。
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