吉川英治『三国志(新聞連載版)』(752)柳眉(りうび)剣簪(けんしん)(五)
昭和17年(1942)3月5日(木)付掲載(3月4日(水)配達)
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呂範はひとまづ客館へ退(さ)がり、玄徳の返辞を待つことゝした。
その夜。玄徳は、孔明以下腹心の諸将をあつめて、呉妹を娶(めと)る事の可否、また呉へ行く事の善悪などについて忌憚(キタン)なき意見を求めた。
「それはぜひ御承諾をお与へなさい。そして呉へお出でなさい」
率直にかう勧めたのは孔明であつた。玄徳が呂範と対面中に、易(エキ)をたてゝ占つてみたところ、大吉の卦(ケ)が出たといふのである。
「——のみならず、こゝは彼の策に乗つて、却(かへ)つて我が策を成すところでせう。すみやかに御許容あつて、呉の国に臨み、御婚儀の典を挙げられるがよいかと思ひます」
さういふ孔明の説に対して、
「いや、これは周瑜の遠謀にちがひない」
とか、
「求めて虎口に入るやうなものだ」
とか、それを危険なりとする議論ももとより百出したが、より以上、玄徳にも重視された問題は、折角いま克(か)ち獲たところのこの荊州地方の地盤を、次の躍進に入る段階まで無事に持ち堪(こた)へるには、どうしても呉との衝突を避けなければならないと考へられる事だつた。
「万事は、私の胸に、お委(まか)せ下さい。決して、諸将が憂へるやうな破滅に君を立(たち)到らせるやうな愚はしません」
孔明のことばに信頼して、諸臣も
「では、異議なし」
と、一致した。
玄徳はなほ危(あやぶ)んでゐたが、孔明はそれを力づけて、まづ答礼の使を遣(や)つてみることにした。呂範と共に、その意味で、呉に下つて行つた者は家中の孫乾(ソンカン)であつた。
月日を経て、その孫乾(ソンカン)は、呉から帰つて来た。そして云ふには、
「呉侯は、それがしを見ると、落胆しました。理由は、呂範と共に、わが君が、直(すぐ)にでも呉へお出でになるものと、独り決めに、豫期してゐたらしいのです。それ程に、呉侯自身は、この縁談の成立を熱望してゐます。もし、この縁が結べれば、両国の平和の為、大慶この上もないことだ。ぜひ、一日も早く参られるよう劉皇叔にすゝめて貰ひたいと、懇(ねんごろ)なご希望でした」
とある。
けれど猶(なほ)、玄徳には、迷つてゐるふうがあつた。併(しか)し、孔明は、着々と準備を運び、随員の大将をも、趙雲子龍に任命した。
そして趙雲に、手づから三つの錦嚢(ふくろ)を授けた。呉へ行つて事(こと)極(きは)まる時は、この嚢を開けて見るがいい。あらかじめ、自分が肝胆を砕いた三ケ条の計(はかりごと)は、此(この)錦の嚢に秘めておいた。これを以て、孔明も共にわが君に随員してをるものと思ひ、惧(おそ)るゝ事なく御供して参るがよいとくれ/゛\も諭した。
建安十四年の冬の初め、華麗なる十艘の帆船は、玄徳、趙雲以下、随行の兵五百人を乗せて、荊州を離れ、長江の大河に入り、悠々千里を南下して呉へ向つた。
呉の都門へ入るに先だつて、趙雲は孔明から渡された錦の嚢を思ひ出し、その第一の嚢を開けてみた。すると中の一文には、
(まづ、喬国老(ケウコクラウ)を訪へ)
と、書いてあつた。
喬家の老主といへば、隠れもない呉の名家である。曽(か)つては、曹操までが想ひを寄せてゐたといはれる姉妹の二美人——二喬の父であるばかりでなく、その姉は、呉侯の先代孫策の室に入り、妹は現に、周瑜の夫人となつてゐるので、今では自らこの国の元老と目され、しかもそれに驕(おご)らず、彼自身の人〔がら〕は昔どおり至つて正直律義なところから、猶(なほ)さら上下の信望は篤く、
喬国老、喬国老。
と、国宝的に一般から崇敬されてゐる人だつた。
——まづこの人を訪へ。
といふ孔明が嚢(ナウ)中(チウ)の言にしたがつて、玄徳と趙雲は、相諮つて、船中の佳宝や物産を掲げ、また兵士をして、羊を牽(ひ)かせ、酒を担はせ、都街の人目をそばだゝせながら、まづ喬国老の家へいきなり行つた。
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