吉川英治『三国志(新聞連載版)』(751)柳眉(りうび)剣簪(けんしん)(四)
昭和17年(1942)3月4日(水)付掲載(3月3日(火)配達)
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はじめに、玄徳の證文を見たときは、案のぜう、孫権は苦りきつて、忽ち、魯粛の上へ、大鉄槌でも下しさうだつたが——次に周瑜からの書簡を披(ひら)いて一読し終ると、
「ウーム、なるほど、周瑜の考へは至極妙だ。これこそ天来の鬼謀といふものだらう」
と、しばらく熟慮に耽(ふけ)り、やがて魯粛には、最初の気色とは打つて変つて、
「御苦労だつた。長途の旅、疲れたらう。けふはまづ休息せい」
と、犒(ねぎ)らつた。
数日の後、また召された。こんどは重臣呂範も同席だつた。孫権を中心に、周瑜の献策が密々協議されたことはいふ迄(まで)もない。
その結果、呂範が、荊州へ使に行くことに極(きま)つた。もちろん表面は呉の修交使節としてであるが、目的は例の呉妹君の婚縁にある。
荊州に着いて、玄徳に会ふと、呂範はまづ両国友好の緊密を力説してから、おもむろに縁談をもちかけた。
「実は、皇叔の夫人甘氏には、疾(と)く逝去(みまか)られて、今ではお独りとの御事情をうけたまはり、ちと差出がましいが、媒人(なかだち)の労をとらして戴(いたゞ)きたいと思うてこれへ来たわけです。どうです、子孫の為、双(ふた)つの国家の為、若い御正室をお娶(むか)へになられては」
「御親切は感謝します。仰せのとほり妻(サイ)を亡(うしな)うて、玄徳はいま家庭的には孤独ですが、さりとて、妻(サイ)とわかれてから、肉まだ寒(ひや)やかといふ程の月日も経つてゐないうちに、どうして後添(のちぞへ)など持つ気になれませう。正直、まだ望んでもをりません」
「それはさうでせうが、家庭に妻(サイ)のないのは、家屋(いへ)に梁(うつばり)がないやうなものです。皇叔の御前途はなほ洋々たるものですのに、何故、一家の事を中道に塞(とざ)して、人倫を廃さるゝのです。——私がおすゝめ申したいのは、わが主呉侯のお妹君で、媒人(なかうど)口(ぐち)ではありません、必らず徳操才色ふたつながら兼備した佳人とはあの御方と存じます。もし皇叔にして、娶(も)つてもいゝといふお心ならば、すみやかに呉の国へお出で下さい。孫権は歓んでお迎へしませうし、われ/\侍側の者も、挙(こぞ)つて、両国の平和の為、この実現に対して、どんな労でも取りますから」
「…………」
玄徳はしばらく黙考してゐたが、やがてかう訊ねた。
「その事は、貴方(あなた)一箇のお考へですか、それとも周瑜あたりから云ひ出された事ですか。若(も)しくは又、呉侯の御内意でもあるか……」
「内々(ナイ/\)、呉侯の御命がなくて、どうして私一箇の思案などから、かやうな大事をおすゝめ出来ませう。……たゞ素気ないお断りでもうけると、呉妹君のお名にもさはることですから、それで実はそつと、御意向を窺つてみるわけですが」
「……いや、さうでしたか。希(ねが)うてもない良縁ではありますが、玄徳も大丈夫を以て任じてはゐるものゝ、年すでに五十、御覧のごとく、鬢髪(ビンパツ)にはやゝ白いものを呈してをる。聞説(きくならく)、呉侯のお妹は、なほ妙齢佳春の人といふ。私とは餘りにふさはしくない配偶ではありませんか」
「いや、いや」
呂範は大きく手を振つた。
「年の近いとか少いとか、そんな数合せみたいな問題ではありませんよ。これは結婚です。しかも二つの国の平和に関はる問題です。呉侯も実に大事を取つてをられ、母公のお案じも、呉妹君のお望みも、一通りなものでない事は、諄々(くど/\)申すまでもありません。……枉(ま)げてもひとつ、皇叔の御来遊を願つて、この祝事(シユクジ)を成功させたい所以(ゆゑん)は、誰(たれ)よりも呉妹君に実は御希望があるわけなのです。……と云ふのは、あのお妹君は、女性(ニヨシヤウ)におはしながら、志は男子より高く、日頃より、天下の英雄にあらずんばわが夫(つま)とはせじ——と仰つしやつてゐる程ですから、以て、お察しがつきませう。いま、皇叔を以て、あの女性(ニヨシヤウ)と配せば、それこそ所謂(いはゆる)——淑女ヲ以テ君子ニ配ス——といふ古語のとほりになると思ふのです。ともあれ、ぜひいちど、呉の都へお遊びにお出まし下さいませんか」
呂範はさすがこの使に選ばれただけの才辯であつた。
この日、孔明は、そこに顔を見せず、次室の屏風の陰にゐて、凝(じつ)と、主客のはなしを聞いてゐた。彼の几(つくゑ)の上には、いまたてた易占(うらない)の算木(さんぎ)が、吉か兇か、卦(ケ)面の変爻(ヘンカウ)を示してゐた。
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