吉川英治『三国志(新聞連載版)』(749)柳眉(りうび)剣簪(けんしん)(二)
昭和17年(1942)3月1日(日)付掲載(2月28日(土)配達)
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辯は水の流るゝ如く、理は炎の烈々たるに似てゐる。
その真理と雄辯のまへには、魯粛もさし俯(うつ)向いてしまふしかなかつた。
——が、彼は恨むがごとく、孔明に答へた。
「公論明白、さう仰つしやられては、何の抗辯もありません。しかし、それでは先生も、餘りに利己主義だと云はれても仕方がありますまい」
「なぜ、私が、利己主義か」
「思ひ給へ」と、こんどは魯粛が攻勢になつて——「その以前、劉皇叔が曹操のため大敗をかうむつて、当陽にやぶれ果てた後、先生を一(イツ)帆(パン)に乗せて呉の国へ伴ひ、切に、わが主孫権を説き、周瑜をうごかして、当時まだ保守的であつた呉をして遂に全面的な出兵を見るに至らしめたのは、いつたい誰(たれ)でしたらうか」
「それは云ふ迄(まで)もなく貴方(あなた)だ」
「その魯粛は、今日、こゝに至つて、主君には面目を失ひ、軍部には不信を問はれ、おめ/\国へ帰ることもできぬ窮地に墜(お)ちてゐます。先生には、私の立場には、何の同情もお持ちにならないとみえる」
「…………」
魯粛の温厚なる抗議には、孔明もやゝ気の毒を覚えたらしい。暫く考へこんでゐたが、やがて新たにかう提議した。
「では、貴方(あなた)の面目をたてゝ、荊州はしばらくわが劉皇叔がお預りしてゐるといふことにしよう。後日、どこか適当な領地を攻略したら、その時、荊州は呉へ開け渡すといふことにして、證書を入れたら、貴方(あなた)も主君にお顔が立つであらう」
「どこの国を取つて荊州をお返し下さるといふのですか」
「中国はすでに、どこへ向つても、魏か呉かに接触する。ひそかに図るに、長江千里の流れ起るところ、西北の奥域、蜀(シヨク)の天地は、まだ時代の外におかれてゐるといつていゝ」
「では、蜀の国を取らんとお望みになつてをられるので」
「然り。蜀を得たあかつきには、荊州をお返しするであらう」
孔明は、紙筆を取寄せて、玄徳にそれを進め促した。玄徳は黙々、呉侯への国際證書を認(したゝ)めて、印章を加へ、
「これでよいのか」
と、孔明へ内示した。
孔明もまた筆を執つて、保證人として連署した。だが、君臣一家の連帯では、公約にならないから、貴方(あなた)もこれに名字をのせたがいゝと求められて、魯粛も遂に妥協するほかなかつた。
魯粛は、この一(イツ)札(サツ)を持つて、呉へ帰つた。途中、柴桑へ寄つて、周瑜の病状を見舞ひがてら、逐一物語ると、
「あゝ、また貴公は、孔明に出し抜かれたのか。何たるお人好しだ。孔明は狡猾の徒、玄徳は姦雄。こんな證文が何にならう。おそらくそのまゝ呉侯に復命されたら、立(たち)所(どころ)に、貴公の首はあるまい。いや、罪九族にも及ぶだらう」
と、痛嘆した。
さう云はれてみると、呉侯孫権の怒(いか)り方が眼に見えてくる。魯粛もその点は甚だ心(こゝろ)許(もと)なかつたのである。——が、今となつては、どうしやうもない。途方に暮れるばかりだつた。
周瑜も、腹を立てたが、心では魯粛のお人好しに、充分、同情を抱いた。それに彼は、むかし困窮してゐた頃、魯粛の田舎の家から糧米三千石を借りて助けられたことがある。——それを思ひ出したので、共に、腕を拱(こまぬ)いて、
(どうしたらいゝか?)
と、懸命に思案した。
ふと、周瑜のあたまに浮んだのは、主君孫権の妹にあたる弓腰姫(キウエウキ)であつた。——佳人年はまだ十六、七。
弓腰姫といふのは、臣下がつけた綽名(あだな)である。深窓の姫君でありながら、この呉妹(ゴマイ)は、生れつき剛毅で、武藝をこのみ、脂粉霓裳(シフンゲイシヤウ)の粧(よそほ)ひも凛々として、剣の簪(かんざし)をむすび、腰にはつねに小弓(セウキウ)を佩(は)き、その腰元たちもみな薙刀(なぎなた)を持つて室に侍してゐるといふ寔(まこと)に一風変つた女性であつた。
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