吉川英治『三国志(新聞連載版)』(748)柳眉(りうび)剣簪(けんさん)(一)
昭和17年(1942)2月28日(土)付掲載(2月27日(金)配達)
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その後、玄徳の身辺に、一つの異変が生じた。それは、劉琦君の死であつた。
故劉表の嫡子として、玄徳はあくまで琦君を立てゝきたが、生来多病の劉琦は、つひに襄陽城中でまだ若いのに長逝した。
孔明はその葬儀委員長の任を済まして、荊州へ帰つて来ると、すぐ玄徳へ求めた。
「琦君の代りに、誰(たれ)か、直(たゞち)に彼処(かしこ)の守りにお遣(つか)はし下さい」
「誰(たれ)がよいか」
「やはり関羽でせうな」
孔明も心では、何といつても、関羽の人物を認めてゐた。
劉琦の死後、玄徳の胸には、一つの不安が醸されてゐた。呉の孫権が待つてゐたとばかりに、荊州を返せと云つて来るにちがひない事である。
「それは軈(やが)て必ず云つて来ることでせうな。琦君が死んだら荊州を返すと先に約束したことですから……が、御心配には及びません。そのときは孔明がよろしきやうに応対します」
孔明がさう慰めてゐると、それから二十日(はつか)ばかり後、果して、
「琦君の喪を弔ふ為、呉侯孫権の御名代に——」
と称して、魯粛が使に来た。
魯粛は、城中の祭堂に、呉侯からの礼物を供へ、悔みを述べた後、玄徳が設けの酒宴に迎へられて、四方山(よもやま)のはなしに時を移してゐたが、軈(やが)てかう切り出した。
「赤壁の大戦の後、わが呉侯から荊州の地を接収に参つたとき、劉皇叔には、琦君の世にあるかぎりは、荊州は故劉表の遺子のものであると仰せられた。いまはその琦君も世を去つたこと故、もうこの荊州は、呉へお返しあるべきでせう。——実は、弔慰をかねて、その事も取(とり)極(き)めて参れと、主君から申しつけられて来たわけですが」
「いや、その事は、いづれ又あらためて、談合しませう」
「又とは、何時(いつ)ですか」
「まあ、こゝは宴席ですから、国事は」
「後でもおよろしいが、かならず前約を違(たが)へ給はぬやうに」
さう魯粛が〔しつこく〕念を押してゐると、突如、孔明が傍らから言葉に気概をこめて云つた。
「粛公、貴方(あなた)だけは、呉の群臣の中でも、物の分つたお人かと思つてゐたら、今の仰せでは、餘りにも世の本義と事理に没常識すぎるではないか。主君玄徳は、貴方(あなた)を弔問の賓客として、懇(ねんごろ)にもてなさうとしてゐるのに、露(あらは)に云ふを避けておいで遊ばす故、私が代つて一応の道理を申し述べよう。心をしづめてよく聞き給へ」
面色をあらためて孔明がさう云ひ出したので、魯粛は、気をのまれたのか、茫然、その顔を見まもつてゐた。
「天下は一人の天下にあらず、すなはち天下の人の天下である。高祖、三尺の剣を提げて、義を宇内(ウダイ)に唱へ、仁を布(し)き、四百餘年の基(もとゐ)を建てられしも、末世現代にいたり、中央は逆臣の府、地方は乱賊の巣と化し、紊(みだ)れに紊れ、百姓の塗炭は連年(レンネン)歇(や)まざる状態にある。時に、我君劉玄徳には、その血液に漢室の正脈をつたへ、その義に於ては、救世の実を天地に誓ふ。すなはち中山靖王の後裔におはし、現皇帝の皇叔にあたられる。いはんや、荊州の故主劉表とは、血縁の間柄にて、我君の義兄(このかみ)たり、いまその血統絶え、荊州に主(あるじ)なきにあたつて、義弟(おとと)とし義兄(このかみ)の業を承け継ぐに、何の不義、何の不可とする理由があらう。——翻(ひるがへ)つて、呉侯孫権の素姓をたづぬれば、元これ銭塘の小吏の子たるに過ぎず、何等朝廷に功もなく、たゞ呉祖の暴勇に依つて、江東六郡八十一州を横奪し得たるにとゞまる——。今、孫権その遺産をうけて、何の能もなきに、更に、慾心を驕(おご)り、荊州をも呑まんとするは、身のほど知らずも甚だしい。思へ、君臣の統を論ずるなら、我君の姓は劉、汝の主人の姓は孫、大漢は劉氏の天下たるを知らないか。よろしく百歩の田地を我君に乞うて、身を農夫と卑(へり)下(くだ)るのが孫権の安全な途といふものである。——更に、赤壁の大捷(タイセフ)が誰(たれ)の功に依るか、といふ問題になれば、なほ大いに議論があるが、それは云はぬことにする。敢て、こゝでは云はぬことにしておく」
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