吉川英治『三国志(新聞連載版)』(747)針鼠(三)
昭和17年(1942)2月27日(金)付掲載(2月26日(木)配達)
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守将の張遼は、きのふの城外戦で、大きな戦果をあげたにも拘(かゝ)はらず、まだ部下に恩賞も頒(わか)たず、自分も甲(よろひ)の緒すら解いてゐなかつた。
多少、不平の気を帯びた副将や部将たちは、暗に、彼の小心を嗤(わら)つた。
「敵はきのふの大敗で、すでに遠く陣地を退(さ)げてしまつたのに、遼将軍にはなぜいつ迄(まで)、甲(よろひ)も解かず、兵に休息もさせないのですか」
張遼は、答へた。
「勝つたのは、昨日の事で、今日はまだ勝つてゐない。明日の事もまだ勝つてゐない。況(いは)んや全面的な勝敗はまだ/\先が知れん。およそ将たるものは、一勝一敗にいち/\喜憂したりするものではない。こよひは殊(こと)に夜廻りをきびしくし、総(すべ)て、物具を解かず、昼夜四交代の制をその儘(まゝ)、かりそめにも防備の気を弛(ゆる)ませぬやうに励まれよ」
すると果してその夜の深更に至つて、妙に城中がざわめき出したと思ふと、
「謀叛人があるぞつ」
「裏切者だ、裏切者だ」
と、いふ声が聞え出した。
張遼には、狼狽はなかつた。すぐ寝所から出て城中を見廻した。濛々と何か煙つてゐる。諸所に〔ぼう〕と赤い火光も見える。
「おう、将軍ですか」
楽進がそこへ駈けつけて来た。眼色(めいろ)を変へて、次に云つた。
「城中に謀叛人が起(おこ)つたようです。軽々しく外へお出にならん方がよろしい」
「楽進か。何をあわてゝゐるのだ大丈夫、あわてるな」
「でも、あの喊声、あの火の手、由々しき騒動です」
「いやいや、わしは最初から眼を醒ましてゐたからよく聞いてゐた。裏切者と呶(ど)鳴(な)る声も、出火だ、謀叛人だと告げ廻つてゐる声も、ふた色ぐらゐな声でしかない。恐らく、一両人の者が城中を攪乱する為にやつた仕事だらう。それに乗せられて混乱する味方自身のはうが遙(はるか)に危険だ。——足下(ソクカ)はすぐ城兵を取鎮めに行け。みだりに騒ぐ者は斬るぞと触れまはれ」
楽進が去ると間もなく、李典が二人の男を縛つて連れて来た。城内攪乱を目論んで忽ち看破されてしまつた張本人の戈定と馬飼(うまかひ)の小者だつた。
「こやつか。斬れつ」
二つの首は、無造作に斬つて捨てられた。——とも知らず、かねてその二人と諜(しめ)し合せのあつた寄手の一軍と、その首将太史慈は、
「しめた。火の手は上つた!」
とばかり、城門へ殺到した。
咄嗟(トツサ)に、この事あるを覚(さと)つた張遼は、城兵を用ひて、わざと、
「謀叛人があるぞ」
「裏切者だぞ」
と、諸方で連呼させながら、西の一門を、故意に内から開かせた。
「——すはや」
と、太史慈はよろこび勇んで、手勢の先頭に立つて壕橋(ほりばし)を駈(かけ)渡り、西門の中へどつと喚(をめ)き込んだ。とたんに、一発の鉄砲が、轟然と四壁や石垣をゆるがしたと思ふと、城の矢倉の陰や剣塀(つるぎべい)の上から、まるで滝のやうに矢が降り注いで来た。
「あつ!しまつた」
太史慈は、急に引返したが、一瞬のまに射立てられた矢は全身に刺さつてまるで針鼠のやうになつてゐた。
李典、楽進の輩(ともがら)は、この図にのつて城中から大反撃に出た。為に、呉軍は大損害をかうむり、逆に、攻囲の陣を払つて、南徐(ナンジヨ)の潤州(ジユンシウ)(安徽省・巣湖)あたりまで敗退するの已(や)むなきに至つてしまつた。
しかも又、譜代の大将太史慈をも遂にこの陣で失つてしまつた。死に臨んで太史慈はかう叫んで逝つたといふ。
「大丈夫たるもの、三尺の剣を帯びて、この中道に仆る。残念、云ふばかりもない。しかし四十一年の生涯、呉祖以来三代の君に会うて、また会心な事がないでもなかつた。噫(あゝ)、然(しか)しなか/\心残りは多い」
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