吉川英治『三国志(新聞連載版)』(746)針鼠(二)
昭和17年(1942)2月26日(木)付掲載(2月25日(水)配達)
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呉の太史慈といへばその名はかくれないものだつた。呉祖孫堅以来仕へてきた譜代の大将であり、しかも武勇はまだ少しも老いを見せてゐない。
魏の張遼とはけだし好敵手と云つてよからう。双方、長鎗(チヤウサウ)を交(まじ)へて烈戦八十餘合に及んだが、勝負は容易につかなかつた。
この間隙に、楽進、李典のふたりは、大音をあげて、
「あれあれ、あれに黄金の盔(かぶと)をいたゞいたる者こそ、呉侯孫権にまぎれもない。もしあの首一つ取れば、赤壁で討たれた味方八十三万人の仇を報ずるにも足るぞ。励めや、者共」
と下知して、自分たちもまつしぐらに喚(をめ)きかゝつた。
孫権の身は、今や危(あやふ)かつた。電光一撃、李典の鎗が迫つた時である。
「さはさせじ!」
と、敢然横合ひからぶつかつて行つた者がある。これなん呉の宗謙(ソウケン)(漢字表記ママ)。
それと見て、楽進が、
「邪魔なつ」
と、間近から、鉄弓を射た。矢は宗謙(ママ)の胸板を射抜く。だうつと、宗謙(ママ)が落ちる。とたんに、馬煙りを後に、孫権は逃げ走つてゐた。
張遼と太史慈とは、まだ火をちらして戦つてゐたが、この中軍の崩れから、敵味方の怒濤に押されつひにその儘(まゝ)、引分れてしまつた。
孫権は逃げる途中、なほ幾度か危機に曝(さら)されたが、程普に救はれて、漸く無事なるを得た。
然し、この日の敗戦が彼の心に大きな痛手を与へたことは争へない。帰陣の後、涙をながして、
「宗謙(ママ)を失つたか」
と、痛哀して歇(や)まなかつた。
長史張紘は、よい時と考へて、
「かういふ失敗は、良き教訓です。君はいま御年も壮(さかん)なために、ともすれば血気強暴に逸(はや)り給ひ、呉の諸君は、為にみな、屢々(しば/\)、心を寒うしてゐます。どうか匹夫の勇は抑へて、王覇の大計にお心を用ひて下さい」
と、諫めた。
孫権も、理に服して、
「以後は慎む」
と、打(うち)悄(しほ)れてゐたが、翌日、太史慈が来てかういふことを耳に入れた。
「それがしの部下に、戈定(クワテイ)といふ者がゐます。これが張遼の馬飼(うまかひ)と兄弟なのです。依つて、密かに款(クワン)を通じ、城中から火の手をあげて、張遼の首を取つてみせんと云つてをります。で、それがしに今宵五千騎をおかし下さい。宗謙(ママ)が仇を取つてみせませう」
孫権は、忽ち心をうごかして、
「その戈定はどこにゐるのか」
と、たづねた。
太史慈は答へて、
「もう城中にゐるのです。昨日(きのふ)の合戦に、敵勢の中に紛れて、難なく城中に入りこんで居るわけで」
「では首尾はよいな」
「大丈夫です。こんどこそは」
太史慈は自信にみちて云つた。
孫権がこれを以て、昨日の敗辱を雪(そゝ)ぐには好機措くべからざるものと乗気になつたことは云ふ迄(まで)もない。
馬飼といふのは、いはゆる馬廻役(うままはりやく)の小者であらう。張遼の馬飼と、太史慈の部下戈定とは、その晩、城中の人なき暗がりで囁(さゝや)き合つてゐた。
「ぬかるな。……丑(うし)の刻(コク)だぞ」
「心得た。おれが、馬糧(まぐさ)小屋(ごや)を始め諸所へ火を放(つ)けて廻るから、おめえは、謀叛人だ、裏切者だ、と呶(ど)鳴(な)つてまはれ」
「よしよし。おれも一緒になつて火を放けながら、呶鳴りちらす」
「火の手と共に、城外から太史慈様が攻めこむことになつてゐる。どさくさ紛れに、西門を内から開くことも忘れるなよ」
「合点々々。忘れるものか。一代の出世の鍵は今夜にありだ」
「……叱(シツ)。誰(たれ)か来た」
ふたりは人の跫音(あしおと)に、あわてゝ左右にわかれてしまつた。
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