吉川英治『三国志(新聞連載版)』(745)針鼠(一)
昭和17年(1942)2月25日(水)付掲載(2月24日(火)配達)
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ほどなく玄徳は、荊州へ引揚げた。
中漢九郡のうち、すでに四郡は彼の手に収められた。こゝに玄徳の地盤はまだ狭小ながら初めて一礎石を据ゑたものと云つていゝ。
魏の夏侯惇は、襄陽から追ひ落されて、樊城へ引籠つた。
彼に従(つ)いてそこへ行かずに、身を転じて、玄徳の勢力に附属して来る者も多かつた。
玄徳はまた北岸の要地油江口を公安と改めて、一城を築き、こゝに軍需品や金銀を貯へて、北面魏をうかゞい、南面呉にそなへた。風(フウ)を慕つて、忽ち、商賈や漁夫の家が市をなし、また四方から賢士剣客の集まつて来るもの日を逐(お)うて殖(ふ)えてゐた。
一方。
呉の主力は、呉侯孫権の直属として、赤壁の大勝後は、その餘勢をもつて、合淝の城(安徽省・廬州)を攻めてゐた。
こゝの守りには魏の張遼がたてこもつてゐた。さきに曹操が都へ帰るに当つて、特に、張遼へ託して行つた重要地の一つである。
赤壁に大捷した呉軍も、合淝を攻めにかゝつてからは、いつかう振はなかつた。
それもそのはず張遼の副将にはなほ李典、楽進といふ魏でも有名な猛将が城兵を督してゐたのである。寄手は連攻連襲をこゝろみたが、不落の合淝に当り疲れて城外五十里を遠巻(とほまき)にし、
「そのうちに食糧がなくなるだらう」
と空(から)恃(だの)みに恃(たの)んでゐた。
ところへ、魯粛が来た。
孫権が、馬を下りて、陣門に出迎へたので、
「粛公は大へんな敬ひをうけたものだ」
と、諸兵みな驚いた。
営中に入ると、孫権は、魯粛へ向つて、意識的に云つた。
「けふは特に馬を下りて出迎への礼をとつた。この好遇は、いさゝか足下のなした赤壁の大功を顕(あらは)すに足りたらうか」
魯粛は、首を振つた。
「云ふに足りません。その程度の表彰では」
孫権は、眼をみはつて、
「では、どれ程に優遇したら、そちの功を顕すに足りるといふのか」
「さればです」
と、魯粛が云つた。
「わが君が、一日も早く、九州の尽(こと/゛\)くを統(す)べ治めて、呉の帝業を万代にし給ひ、そのとき安車蒲輪(アンシヤホリン)をもつて、それがしをお迎へ下されたら、魯粛の本望も初めて成れりといふものでせう」
「さうか。いかにも!」
二人は手を打つて、快笑した。
けれど魯粛はその後で、せつかく上機嫌な呉侯に、ちといやな報告もしなければならなかつた。
それは、周瑜が金創の重態で仆れたことゝ、荊州、襄陽、南郡の三要地を、玄徳に取られた事の二つだつた。
「ふゝむ……周瑜の容態は、再起もおぼつかない程か」
「いや、豪気な都督のことですから、間もなく、以前のお元気で恢復されることゝは思ひますが……」
話してゐるとこへ、今、合淝の城中から一書が来ましたと、一人の大将が、恭しく、呉侯の前に書簡をおいて行つた。披(ひら)いてみると、張遼からの決戦状であつた。
呉の大軍は蠅か蛾か。
いつたいこの城を取巻
いて、何を求めてゐる
のであるか。
文辞は無礼を極め、甚しく呉侯を辱(はづか)しめたものだつた。孫権は、赫怒して、
「よしつ、その分ならば、わが真面目を見せてくれよう」
と、翌早朝に陣門をひらいて、甲鎧(カフガイ)燦爛(サンラン)と、自身、先に立つて旭(あさひ)の下を打つて出た。
城からも、張遼をまん中に、李典、楽進など主なる武者は、総出となつて押(おし)よせて来た。
「呉侯、見参つ」
と、張遼は一本槍に、その巨物(おほもの)を目がけて行つた。すると、馬蹄に土を飛ばして、
「下司(ゲス)つ、ひかへろ」
と、一大喝しながら立(たち)塞(ふさ)がつた者がある。呉の大将太史慈であつた。
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