吉川英治『三国志(新聞連載版)』(744)黄忠の矢(四)
昭和17年(1942)2月24日(火)付掲載(2月23日(月)配達)
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玄徳は、即日、法三章を掲げて、広く新領土の民へ布告した。
一不忠不孝の者斬る
一盗む者斬る
一姦する者斬る
また、功ある者を賞し、罪ある者を罰して、政(まつりごと)を明(あきら)かにした。
関羽がひとりの壮士を携へて出頭したのは、さうした繁忙の中であつた。
「たれだ、その者は」
玄徳がたづねると、関羽は、自分の傍らに拝跪礼(ハイキレイ)を執つてゐる男へ向つて、
「劉皇叔でゐらせられる。御挨拶を申し上げなさい」
と、云つた。
男は、叉手(サシユ)の礼をした儘(まゝ)、黙然と面(おもて)をあげた。朱面(シユメン)黒眉(コクビ)唇(くち)大きく鼻(はな)秀(ひい)で、容貌見るべきものがある。
「これはかねて、お耳に入れておいた魏延です。善政の初めに、魏延の功にも、御一言なりと下し給はらば有難うぞんじまする」
関羽のことばに、玄徳は、おゝと膝を打つて、
「黄忠を救ひ、真つ先に長沙の城門を開いた勇士魏延か。さすがに名ある武者の骨柄も見ゆる。賞せずに措かうや」
と、まづ敬つて、階(きざはし)の上に請(セウ)じようとすると、突如、
「不義士つ。階を汚すなかれ!」
勃然と叱つた者がある。
あつと驚いて、その人を見ると、孔明だつた。孔明はまた玄徳へ向つて直言した。
「魏延に賞を賜ふなど以てのほかです。彼、元より韓玄とは、何の仇(あだ)あるに非ず。却(かへ)つて、一日でもその祿を食(は)み、かりそめにも、主君とたのみ、仰いでゐた人です。それを、一朝の変に際し、忽ち殺して御麾下に馳せ参ず。——これ味方にとつては大幸といへますが、天下の法を道に照らしては、免(ゆる)し難き不忠不義です。君いまこの不仁の徒を見給ひ、これを斬つて諸人に示すほどな御公明がなければ、新領土の民も服しますまい」
孔明は、武士を呼んで、即座に魏延を斬れと命じた。
玄徳は、明(あきら)かに、その決断を缺いた。いや却(かへ)つて、孔明の命を遮つて、
「待て待て」
と、武士たちを制し、孔明をなだめて、魏延のために、命乞ひをすらしたのである。
「味方に功を寄せ、また降順をちかひ、折角、わが麾下へ跪(ひざま)づいて来た者を、忽ち、罪をかぞへて斬りなどしたら、以後、玄徳の陣門に降を乞ふ者はなくなるだらう。魏延はもと荊州の士、荊州の征旗を見て帰参したのは、決して不義ではない。韓玄に一日の祿を恃(たの)んだといへ、韓玄も実心を以て彼を召抱へたわけでもなく、魏延もそれに臣節を以て仕へたわけではなからう。彼の心は元から荊州へ復帰したい念願であつたにちがひない。いかなる人間でも落度をかぞへれば罪の名を附すことができる。どうか一命は助けてとらすやうに」
玄徳の辯護は、まるで骨肉を庇(かば)ふやうだつた。孔明は、沈黙してしまつたが、なほそれを免すにしても、かう彼自身の信念を注意しておくことを忘れなかつた。
「露骨に云ひますと、今、私が魏延の相を観るに、後脳部に叛骨が隆起してゐます。これ謀叛人によくある相であります。ですから、いま小功を挙げて、これを味方にゆるすも、後々、かならず叛くに違ひありません。むしろ今、誅(チウ)を加へて、禍(わざはひ)の根を断つたはうが宜(よろ)しいかと存じたのでありますが、わが君が、それほど迄(まで)、御(ご)不愍(フビン)をおかけ遊ばすものを、孔明とて、如何とも致し方はありません」
「……魏延、聞いたか。かならず今日の事を忘れずに、異心を慎めよ」
玄徳にやさしく諭されて、魏延はたゞ感泣に咽(む)せてゐた。
玄徳はまた、劉表の甥の劉磐(リウハン)といふ者が、荊州滅亡の後、野に隠れてゐることを黄忠から耳にして、わざわざこれを捜し求め、すなはち長沙の太守として、少しも惜しむところがなかつた。
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