吉川英治『三国志(新聞連載版)』(743)黄忠の矢(三)
昭和17年(1942)2月22日(日)付掲載(2月21日(土)配達)
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関羽も胆(きも)を寒うした。黄忠の弓術は、いにしえへの養由(ヤウユウ)が、百歩を隔てゝ柳の葉を射たといふ——それにも勝るものだと思つた。
「さては、きのふのわが情を、今日の矢で返したものか」
さう覚(さと)つたので、関羽は、猶(なほ)さら舌をふるつて、その日は兵を退(さ)げてしまつた。
一方の黄忠は、城中へもどるとすぐ、太守韓玄の前へ理不尽に引つ立てられてゐた。
韓玄は以てのほかの立腹だ。声を烈(はげ)まして、黄忠を罵り辱(はづ)かしめた。
「城主たるわしに眼がないと思つてゐるのか。三日の間、わしは高櫓(たかやぐら)から合戦を見てゐたのだぞ。然るに、けふの戦(いくさ)は何事だ。射れば関羽を射止め得たのに、汝は、弓の弦(つる)ばかり鳴らして、射たと見せかけ、故意に助けたのではないか。言語道断。察するところ、敵と内通してゐるにちがひない。恩知らずめ。その弓は、やがて主へ向つて引かうとするのだらう」
「あゝ、御主君!」
黄忠は、涙をたれながら、何か絶叫した——。早口に、その理由を、云ひ開かうとしたのである。
だが、耳をかす韓玄ではなかつた。即刻、刑場へ曳き出して斬れと呶(ど)鳴(な)る。諸将が見かねて、哀訴嘆願をこゝろみたが、
「うるさいつ。やかましい。諫めるものは同罪だぞ」
と、いふ始末。
長沙の名将黄将軍も、今は刑場の鬼と化すかと、刑にあたる武士や吏員までがかなしんでゐたが、忽ち、その執行直前に、周囲の柵を蹴破つて、躍りこんで来た壮士がある。
この人、面(おもて)は丹(に)で塗つた棗(なつめ)の如く、目は朗(ほがらか)にして巨(おほ)きな星に似てゐた、生れは義陽(ギヤウ)。魏延、字(あざな)は文長(ブンチヤウ)といふ。
もと荊州の劉表に仕へ、一方の旗頭(はたがしら)に推されてゐたが、荊州没落の後、長沙に身を寄せてゐたものである。
併(しか)し、日頃から韓玄は、彼の偉材を、却(かへ)つて忌み嫌ひ、むしろ他国へ逐(お)ひやつてしまひたいやうな扱ひをしてゐたので、魏延はひそかに、今日の機会を、待つてゐたものと思はれる。
「あれよ」
と、人々の躁(さは)ぐまに、彼は、黄忠の身を攫(さら)つて、刑場から脱してしまつた。それからわづか半(はん)刻(とき)の後には、自分の部下を引具して、城中の奥へ駈け入り、太守韓玄の首を斬つて、関羽の陣門へ降つてゐた。
「さらば、疾(と)く」
と、関羽は一挙に長沙の城へ入つて、城頭に勝旗をかゝげ、城下一円に軍政の令を布(し)いた。
「黄忠は、どうしてゐるか」
その後ですぐ訊ねると、魏延は
「それがしが韓玄を斬るべく奥へ向つた時、眼をふさぎ耳を抑へて、自分の邸(やしき)へ駈けこんで行きました」
「戦は熄(や)んだ。では、迎へをやらう」
と、再三、関羽から使を出したが、黄忠は、病(やまひ)に托して出て来ない。
かゝるうちに玄徳は、関羽の早馬をうけて、
「さすがは」
と、彼の功を賞しながら、孔明と馬をならべて、長沙の市門へ急いでゐた。
その途中、先頭に立てゝゐた青い軍旗の上に、一羽の鴉(からす)が舞ひ下がつて啼くこと三度、北から南の空へ飛び去つた。
「先生。何か凶兆ではないでせうか」
と、孔明に訊くと、
「いや、吉兆です」
と、孔明は、衣の下で何か指を繰りながら、卜(うらなひ)をたてゝ答へた。
「これは、長沙の陥落と共に、良将を獲たことを祝福して、鴉が天告を齎(もたら)して来たものです。かならず何かいゝ事がありませう」
果せるかな、玄徳は、黄忠、魏延のことを、間もなく、出迎への関羽から聞いた。
「——病に托して門を出ないのは、黄忠の旧主にたいする忠誠にほかならない。自分が行つて迎へて来よう」
と、玄徳は、直(たゞち)に駕を命じて、黄忠の閉ざせる門を訪れた。その礼に感じて、つひに黄忠も、私邸の門をひらいて降参し、同時に、旧主韓玄の屍(かばね)を乞ふて、城の東へ手あつく葬つた。
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