吉川英治『三国志(新聞連載版)』(742)黄忠の矢(二)
昭和17年(1942)2月21日(土)付掲載(2月20日(金)配達)
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げにもと、玄徳は頷(うなづ)いて、すぐ関羽のあとから一軍を率ゐて、長沙へ急いだ。
彼が、目的地に着いた頃、すでに長沙の城市には、煙が揚つてゐた。
関羽の手勢は、短兵急に外門を破り、すでに城内で市街戦を起してゐた。
楊齢(ヤウレイ)といふのは、長沙の太守韓玄の股肱(ココウ)の臣で、防戦の指揮官を自分から買つて出た大将だつたがこの日、関羽がその楊齢を一撃に屠つてしまつたので、長沙の兵は潰乱(クワイラン)して、忽ち城地の第二門へ逃げこんでしまつた。
すると、城中からひとりの老将が、奔馬に跨(また)がり、大刀をひつさげて殺出して来た。
関羽は、ひと目見るとすぐ、
(さては、孔明が自分に云つた黄忠といふのは、この老将だな)と感じたので、颯(サツ)と、彼の前を遮つて、呼びかけた。
「来る者は、黄忠ではないか」
「さうぢや。汝は、関羽よな」
「然り。——その白髪(しらが)首(くび)を所望に参つた」
「猪口才(チヨコザイ)であらう。まだ汝等のやうな駈出しの小僧に首を持つて行かれるほど、長沙の黄忠は老(おい)ぼれてはをらぬ」
なるほど——と関羽も戦ひに入つてから舌を巻いた。
彼の偃月の青龍刀も、黄忠の大刀に逆らはれては、如何(いかん)とも敵の体へ触れることが出来なかつた。
この決戦は、実に堂々たる一騎打の演出であつたとみえ、両軍とも、餘りの見事さに、片唾(かたづ)をのんで見(み)惚(と)れてしまつたと云はれてゐる。しかも、なほ勝負のつく色も見えなかつたが、城の上からそれを眺めてゐた太守韓玄は秘蔵の一臣を、こゝで討たれては味方の大事と心配し出して、
「退(ひ)き鉦(がね)を打て、黄忠を退(ひ)かせろ」
と、高矢倉から叫び出した。
たちまち耳を打つ退き鉦の音(ね)に黄忠は、ぱつと馬を回(かへ)した。そして急速度に城中へ駈けこむ兵に交(まじ)つて、彼の馬もその影を没しかけた。
「好敵、待ち給へ」
関羽は、追撃して、執拗に敵へ喰ひ下がつた。ぜひなく、黄忠もまた馬を旋(めぐ)らして二、三十合斬りむすんだが、隙を見て、壕(ほり)の橋を渡り越えた。
「卑怯なり。名ある武将のする業(わざ)か」
と辱(はづ)かしめながら、関羽の馬蹄は、なほ橋を踏み鳴らして、しかも今度は、前よりも近く、黄忠の姿を、偃月刀の下に見(み)降(くだ)したのであつた。
けれど、関羽は、折角、振りかぶつた大青龍刀を、なぜか、敵の頭(かうべ)に下さなかつた。
そして、
「あら無残。早々、馬を乗り代へて、快く勝負を決せられよ」
と云つた。
黄忠は、馬と一緒に、地上に転んでゐたのである。何かに躓(つまづ)いて彼の乗馬が前脚を挫き折つてしまつた為だつた。
併(しか)し、乗り代へる馬もないので黄忠は味方の歩兵に交(まじ)つて、危くも、城壁の内へ馳けこんだ。この間にも、追へば追ひつけるものを、関羽は、彼方へ引つ返してしまつた。
太守韓玄は、冷汗(ひやあせ)をながしてゐたらしく、黄忠を見ると、すぐ云つた。
「けふの不覚は、馬の不覚。汝の弓は、百度放つて、百度(ヒヤクド)中(あた)る。明日は、関羽を橋のあたりまで誘(おび)き寄せ、手練の矢を以て、彼奴(きやつ)を射止めて見せてくれ」
と励まし、自分の愛馬の蘆毛(あしげ)を与へた。
夜が明けると、関羽はまた、手勢わづか五百ばかりだが、勇敢に城下へ迫つて来た。
黄忠は、けふも陣頭に姿をあらはし、関羽と激闘を交へたが、やがて昨日のやうに逃げ出した。そして橋の辺(ヘン)まで来ると、振(ふり)顧(かへ)つて弓の弦(つる)を〔ぶん〕と鳴らした。関羽は身をすぼめたが、矢は来なかつた。
橋を越えると、黄忠は又、弓を引きしぼつた。しかし今度も、弦(つる)は空(から)鳴(なり)しただけだつた。
ところが、三度目には、兵(ヘウ)ツと矢うなりがして、まさしく一本の矢が飛んで来た。そしてその矢は、関羽の盔(かぶと)の纓(を)を、ぷつんと、見事に射止めてゐた。
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