吉川英治『三国志(新聞連載版)』(741)黄忠の矢(一)
昭和17年(1942)2月20日(金)付掲載(2月19日(木)配達)
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このところ脾肉(ヒニク)の嘆(タン)にたへないのは張飛であつた。常に錦甲(キンカフ)を身に飾つて、玄徳や孔明の側に立ち、お行儀のよい並び大名としてゐるには適しない彼であつた。
「趙雲すら桂陽城を奪(と)つて、すでに一功を立てたのに、先輩たるそれがしに、欠伸(あくび)をさせて置く法はありますまい」
と、変に孔明へ絡んで、次の武陵城攻略には、ぜひ自分を——と暗に望んだ。
「しかし、もし御辺に、不覚があつた場合は」
孔明が、わざと危(あやぶ)むが如く、念を押すと、
「軍法にかけて、この首を、諸軍の見せしめに献じよう」
張飛は、憤然、誓紙を書いて示した。
「さらば行け」
と、玄徳は彼に兵三千をさづけた。張飛は勇躍して、武陵へ馳せ向つた。
「大漢の皇叔玄徳の名と仁義は、もうこの辺まで聞えてゐます。また張飛は、天下の虎将。——その軍に向つて抗戦は無意味でせう」
かう云つて、太守(タイシユ)公旋(コウセン)(ママ)をいさめたのは、城将のひとり鞏志(キヨウシ)といふ者だつた。
「裏切者。さては敵に内通の心を抱いてゐるな」
公旋(ママ)は怒(いか)つて、鞏志の首を斬らうとした。
人々が止めるので、その一命だけは助けてやつたが、彼自身は即座に戦備をとゝのへて、城外二十里の外に防禦の陣を布(し)いた。
張飛の戦法は殆ど暴力一方の驀進(バクシン)だつた。しかも無策な公旋(ママ)はそれに蹴ちらされてさん/゛\に敗走した。
そして城中へ逃げて来たところ、楼門の上から鞏志が弓に矢をつがへて
「城内の民衆は、みな自分の説に同和して、すでに玄徳へ降参のことに極(きま)つた」
と、呶鳴りながら、びゆうんと弦(つる)を反(かへ)した。
矢は、公旋(ママ)の面(おもて)に中(あた)つた。鞏志は、首を奪つて、城門をひらき、張飛を迎へ入れて、元来、玄徳を景慕してゐた由を訴へた。
張飛は、軍令を掲げて、諸民を安んじ、また鞏志に書簡を持たせて、桂陽にゐる玄徳の許へ、その報告に遣(や)つた。
玄徳は、鞏志を、武陵の太守に任じ、こゝに三郡一括の軍事も一(ひと)先(ま)づ完遂したので、荊州に留守をしてゐる関羽のところへも其(その)由を報(し)らせて、歓びを頒(わ)けてやつた。
すると、関羽からすぐ、返書が来て、
(張飛も趙雲も、各々一かどの働きをして実に羨(うらや)ましく思ひます。せめて関羽にも、長沙を攻略せよとの恩命があらば、どんなに武人として本望か知れませんが……)
などと、独り留守城にゐる無聊(ブレウ)を綿々と訴へて来た。
玄徳はすぐ、張飛を荊州へ返して、関羽と交代させた。そしてわづか五百騎の兵を貸して、
「これで長沙へ行け」
と、関羽の希望にこたえた。
関羽は、元より人数の多寡など問うてゐなかつた。即日、長沙へ向ふべく準備してゐると、孔明が、
「羽将軍には注意するまでもないと思ふが、戦ふにはまづ敵の実質を知ることが肝要です。長沙の太守韓玄は取るにも足らん人物だが、久しく彼を扶(たす)け、よく長沙を今日まで経営して来た良将がひとり居る。その人はもう年六十に近く、髪も髯(ひげ)も真つ白になつてゐるだらう。然(しか)し、戦場に立てば、よく大刀を使ひ、鉄弓を引き、万夫不当の勇がある。すなはち湖南の領袖(リヤウシウ)、黄忠(クワウチウ)といふ——。故に決して軽々しくは戦へない。もし御辺がそれに向ふなれば、更に、三千騎をわが君に仰いで、大兵を以て当らなければ無理であらう」
と告げた。
しかし、何と思つたか、関羽は孔明の忠告も、耳に聞いたゞけで、加勢も仰がず、たつた五百騎を連れてその夜のうちに立つてしまつた。
孔明は、その後で、玄徳へ対して、かう注意した。
「関羽の心裡には、まだ赤壁以来の感傷が残つてゐます。悪くすると黄忠のために討死するやも知れません。それに小勢過ぎます。わが君自ら後(ゴ)詰(づめ)して、ひそかに力を添へてやる必要がありませう」
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