吉川英治『三国志(新聞連載版)』(739)白羽扇(びやくうせん)(六)
昭和17年(1942)2月18日(水)付掲載(2月17日(火)配達)
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「私の嫂(あによめ)です」
と、趙範はにや/\紹介した。
すると、趙子龍は、容(かたち)をあらためて、ことばも丁寧に
「それは知らなかつた。召使と思ふて、つい」
と、失礼を詫びた。
趙範は、傍らからその美人へ向つて、お酌をせいとか、そこの隣りへ坐れとか、しきりに世話を焼き出したが、趙子龍が
「無用、無用」
と、疫病神でも払ふやうに手を振つてばかりゐるので、折角の美人もつまらなさうに、立去つてしまつた。
趙雲は、その後で、趙範に咎めた。
「何だつて嫂ともあるお方を、侍婢か何ぞのやうに、軽々しく、客席へ出されるのか」
「いや、——実はかうです。そのわけといふのは、彼女はまだ若いのですが、てまへの兄にあてる良人(をつと)に死別れ、寡(やもめ)となつたから三年になります。もうしかるべき聟(むこ)をとつたらどうだと、それがしはすゝめてゐますが、嫂には、三つの希望があるのです。一つは、世に高名を取り、二つには先夫と氏姓の同じな者、三つには文武の才ある人といふ贅沢なのぞみなので」
「うーむ」
趙雲は、失笑をもらした。
けれど趙範は熱心に
「いかゞでせう。将軍」
「なにがだ」
「嫂の日頃の希望は、さながら将軍の世にあるを豫知して、これへ見えられる日を待つてゐたやうに、将軍の御人格とぴつたり合つてゐます。ねがはくば妻として将軍の室に入れて下さらんか」
聞くと、趙雲は、眼(まなこ)をいからして、いきなり拳(こぶし)をふりあげ、
「不埓者(ふらちもの)つ」
ぐわんと、趙範の横顔を、撲(なぐ)りつけた。
趙範は、顔をかゝへて、わつと、転がりながら、
「何をするのだ。無態な」
と、喚(わめ)ゐた。
趙雲は起ち上がつて、
「無態もくそもあるか。汝のやうな者を蛆虫といふのだ」
と、もう一つ蹴とばした。
「蛆虫とな。け、怪(け)しからんことを。——慇懃(インギン)に、かくの如く、礼を厚うしてゐるそれがしに、蛆虫とは」
「人倫の道を知らぬやつは蛆虫にちがひなからう。嫂を以て、客席へ侍(はべ)らすさへ、言語道断だ。それを猶(なほ)、此方の妻にすゝめるとは女衒(ぜげん)にも劣る畜生根性。——貴様の背骨はよほど曲がつてゐるな」
と、更に、趙範をぎゆう/\踏みつけて、ぷいと、そこを出てしまつた。
趙範は起(おき)上つて、うろ/\してゐたが、やがて陳応、鮑龍を呼んで、
「忌々しい趙子龍めが、何処へ行つたか」
と、肩で息してみせた。
二人は口を揃へて、
「こゝを出るや、馬に飛び乗つて城外へ馳けて行きました」
と、告げた。そして又、
「かうなつたら、徹底的に、勝敗で事を決めるしかありますまい。われわれ両名は、詐(いつは)つて、これから子龍の陣へ行き、彼をなだめてをりますから、太守には夜陰を待つて、急に襲撃して下さい。さすれば、われわれ両名が、陣の中から呼応して彼奴の首を掻き取つてみせます」
諜(しめ)し合せて、二人は城外へ出て行つた。
一隊の兵に、美酒財宝を持たせ、やがて趙子龍の陣所へ訪れた。そして地上に拝伏して、
「どうか、主人の無礼は、幾重にもおゆるし下さい。まつたく悪気で申しあげたわけではないと云つてをりますから」
と、額を叩いて詫(わび)入つた。
趙子龍は、彼等の詐術であることを看破してゐたが、わざと面をやはらげ、土産の酒壺を開かせて
「けふは、せつかくの所を、酔ひ損ねてしまつた。大いに酔ひ直さう」
と云つて、使の二人にも、大杯をすゝめた。
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