吉川英治『三国志(新聞連載版)』(737)白羽扇(びやくうせん)(四)
昭和17年(1942)2月15日(日)付掲載(2月14日(土)配達)
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今回より14冊単行本の巻の九「望蜀の巻」に入ります。
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玄徳、孔明は轡(くつわ)をならべて、零陵へ入城した。
前の太守劉度は、そのまゝ郡守としてこゝに置き、子の延は軍に加へて、更に、桂陽(湖南省・汝陽の西北)へ進んだ。
桂陽へ攻め寄る日。
「たれがまづ先陣するか」
と、玄徳が諸将を見わたした。
「それがしが!」
と、一人が手を挙げたとたんにすぐ、張飛もをどり出て、
「願はくば此(この)方(ハウ)を!」
と、希望した。
先に手を挙げたのは趙子龍であつた。孔明は、
「趙雲の答へが少し早かつた。早いはうに命ぜられては」
孔明が、迷つてゐる玄徳へさう云つた。ところが、張飛は肯(き)かない。
「返事の早いか遅いかで決めるなど、前例がありません。何故、てまへをお用ひなされぬか」
「争ふな」
孔明は、仕方なく前のことばを撤回した。そして、
「さらば、鬮(くじ)をひけ」
と責任をのがれた。
趙雲が「先」といふ字の鬮に当つた。張飛の引いたのは「後」である。
「冥加、冥加」
と趙雲はよろこび勇んだが、張飛は甚だよろこばない。なほまだぐづ/\云つてゐたが、
「未練といふものだぞ」
と、玄徳に叱られて、漸く陣列へすがたを退(ひ)いた。
趙雲は、手勢三千を申し受けた。孔明から、
「それで足りるか」
と念を押されて、
「もし敗戦したら軍罰を蒙(かうむ)りませう」
と、豪語した。
このことばを誓紙として、趙雲子龍は、一挙に桂陽城奪取に馳せ向つた。
桂陽城には、世に聞えた二人の勇将がゐた。ひとりは鮑龍(ハウリウ)といい、よく虎を手(て)擒(どり)にするといはれ、もう一名は陳応(チンオウ)と称して、いはゆる力(ちから)山を抜くの猛者(もさ)だつた。
「いま、玄徳の軍を見てからでは、もう防塁を築くことも、強馬精兵を作る日の遑(いとま)もない。しかず、早く降参して、せめて旧領の安泰を縋(すが)らうではないか」
太守の趙範は、すこぶる弱気だつた。それを叱咤して、
「かひなきことを宣(のたま)ふな。藩中に人なきものならいざ知らず——」
と、強硬に突つ張つてゐたのは前に掲げた鮑龍、陳応の二将であつた。
「敵の劉玄徳は、天子の皇叔なりなどゝ僭称してゐますが、事実は辺土の小民、その生ひ立(たち)は履(くつ)売(うり)の子に過ぎません。——関羽、張飛、また不逞の暴勇のみ。何を恐れて、桂城の誇りを、自ら彼等の足もとへ放抛(ハウテキ)(ママ)なさらうとしますか」
「でも、これへ向つて来ると聞く趙雲子龍は、かつて当陽の長坂坡で、曹軍百万の中を駈け破つた勇者ではないか」
「その趙雲と、この陳応と、いづれが真の勇者であるか、篤(トク)と見届けてから降参しても遅くはありますまい」
非常な自信である。
太守趙範も、やむなく抗戦と極(き)めた。陳応は四千騎をひつさげて、城外に陣を展き、
「破れるものなら破つてみよ」
と、強烈な抗戦意志を示した。
寄手は近づいた。
両軍接戦となるや、趙雲子龍は馬躍らせて、敵将陳応に呼びかけ、
「劉皇叔。さきに世を去り給ひし劉表の公子琦君をたすけて、こゝに安民の兵馬をすゝめ給ふ。矛(ほこ)を投げ、城門をひらいて迎へよ」
と、云つた。
陳応は、あざ笑つて、
「われ/\が主と仰ぐは、曹丞相よりほかはない。汝等はなぜ許都へ行つて、丞相の御履(おくつ)でも揃へないか」と、からかつた。
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次回 → 白羽扇(五)(2026年2月16日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。

