吉川英治『三国志(新聞連載版)』(734)白羽扇(びやくうせん)(一)
昭和17年(1942)2月11日(水)付掲載(2月10日(火)配達)
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荊州、襄陽、南郡三ケ所の城を一挙に収めて、一躍、持たぬ国から持てる国へと、その面目を一新しかけて来た機運を迎へて、玄徳は、
「こゝで好(よ)い気になつてはならぬ——」
と、大いに自分を慎んだ。
「亮先生」
「何ですか」
「労せずして取つた物は、また去ることも易しとか。三ケ所の城は、先生の計一つで、餘りに易々とわが手に落ちたが、それだけに長久の策を思はねばならんと考へるが」
「御もつとものお言葉には似てをりますが、決して然らずです。三ケ所の城が一挙にお手に入つたのも、実にわが君が多年の辛苦から生れたもので、易々と転げこんで来たのではありません」
「でも、一戦も交へず、一兵も損ぜずに、この中央にわが所を得たのは、餘りに好運すぎる」
「御謙遜です。みな君の御徳(おとく)と、積年の労苦がこゝに結集したものです。はやい話が、君にその積徳と御努力が過去になかつたら、この孔明ひとりでも、今日、お味方の内には居なかつたでせう」
「では先生、どうか更に、玄徳が労苦をかさね、徳を積んでゆく長久の計をさづけて欲しい」
「人です。すべては人にあります。領地を拡大される毎(ごと)に、さらにそれを要としませう」
「荊、襄の地に、なお遺賢がゐるだらうか」
「襄陽(ジヤウヤウ)宜城(ギジヤウ)の人で、馬良(バレウ)(ママ)、字(あざな)を季常(キジヤウ)といふ、この者の兄弟五人は、みな才名高く、馬氏の五常と世間から云はれてゐますが、中で馬良はもつとも逸材で、その弟の馬謖(バシヨク)も軍書を明らかに究め、万夫不当の武人です」
「召したら来るだらうか」
「幕賓の伊籍は親しいと聞いてをります。伊籍から迎へさせては如何です」
「さうしよう」
早速、玄徳は、伊籍に諮つて、迎への使をやつた。
馬良はやがて城へ来た。雪を置いたやうに眉の白い人であつた。馬氏の五常、白眉(ハクビ)を良しと、世間に評があつた。
玄徳は、彼にたづねた。
「御身はこの地方の国情には詳しからう。わしは近頃、三城を占めて、こゝに君臨したものだが、この先の計は、どうしたが最も良いか」
「やはり劉琦君をお立てになることでせう。御病体ですからこの荊州の城に置かれて、旧臣を喚(よ)び迎へ、また都へ表を上せて、琦君を荊州の刺史に封じておあげなさい。人心はみな、あなたの御仁徳と公明な御処置に随喜して馴(な)づきます。——それを強味に、それを根本に持つて、あなたは南の四郡を伐り取つたがよろしいかと思はれます」
「その四郡の現状は」
「——武陵(ブリヨウ)には太守(タイシユ)金旋(キンセン)があり、長沙には韓玄(カンゲン)、桂陽(ケイヤウ)には趙範(テウハン)、零陽(レイヤウ)(ママ)には劉度(リウド)などが、各々地盤を占てをります。この地方は総じて、魚米の運輸よろしく、地も中原に似て肥沃です。以て長久を計るに足りませう」
「それへ攻(せめ)入るには」
「湘江(シヤウカウ)の西、零陵(レイリヨウ)(湖南省・永州)から手をつけるのが順序でせう。次に桂陽、武陵と取つて、長沙へ進攻するのが自然かと思ひます。要するに、兵の進路は流れる水です。水の行くところ、自然の兵路と云へるでせう」
賢者の言は、みな一つだつた。玄徳は自信を得た。味方の誰(たれ)にも異論はなかつた。
建安十五年(ママ)の春、彼の部下一万五千は、南四郡の征途に上つた。
趙雲は後陣に従(つ)く。
もちろん玄徳、孔明はその中軍にあつた。
この時も、関羽は留守をいひつかり、あとに残つて、荊州の守りを命ぜられた。
玄徳の軍来る!——の報は、たちまち零陵を震駭(シンガイ)せしめた。戦革(センカク)の世紀にあつては、どこの一郡一国であらうと、この世紀の外に安眠を貪つてゐることはできなかつたのである。
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次回 → 白羽扇(二)(2026年2月12日(木)18時配信)
昭和17年(1942)2月12日(木)付の夕刊は、前日(配達日)の2月11日(水)が祝日(紀元節(神武天皇即位日))のため休刊でした。これに伴い、明日の配信はありません。

