吉川英治『三国志(新聞連載版)』(733)一摑三城(いつくわくさんじやう)(九)
昭和17年(1942)2月10日(火)付掲載(2月9日(月)配達)
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魯粛は云ふ。
「いま、曹操と戦つて赤壁に大捷(タイセフ)を得たといつても、まだ曹操そのものは仆(たふ)しておりません。成敗の分れ目はこれからです。一面に、呉君孫権には、先頃から又、合淝(ガツピ)方面を攻めてをらるゝ由。——そんな態勢をもつて、こゝで又も、玄徳と戦端を開ゐたら、これは曹操にとつて、もつとも乗ずべき機会となりませう」
周瑜にも、その不利は、当然分つてゐたが、彼のやみ難い感情が、頑として、云ふのであつた。
「わが大軍が、赤壁に魏を打破るためには、いかに莫大なる兵力と軍費の犠牲を払つたか知れない。然るに、その戦果たる荊州地方を何もせぬ玄徳に横(よこ)奪(ど)りされて黙止してをられるか」
「ごもつともです。それがしが玄徳に対面して、篤(トク)と、道理を説いてみませう」
魯粛はすぐ南郡城へ使した。その姿を見るや、城頭のいたゞきから、守将趙雲が声をかけた。
「呉の粛公。何しに見えられたか」
「備公にお目にかゝらんが為に」
「劉皇叔には、荊州の城においで遊ばされる。荊州へ行き給へ」
ぜひなく、彼はその足で、荊州へ急いだ。
荊州の城を訪(と)うてみると、旌旗(セイキ)も軍隊も街の声も、今はすべて玄徳色に彩(いろど)られてゐる。——噫(あゝ)と、魯粛は嘆ぜさるを得なかつた。
「やあ、お久しうございました」
迎へたのは、孔明である。礼儀は極めて篤い。賓主の座をわかつやすぐ、魯粛は彼を責めた。
「曹軍百万の南征で、第一に擒人(とりこ)となるものは、恐らくあなたの御主君備公であつたらうと思ふ。それをわが呉の国が莫大な銭粮を費やし、兵馬大船を動員して、必死に当つたればこそ、彼を撃破し、お互ひに難なきを得ました。その戦果として、荊州は当然、呉に属していゝものと考へられるが、御辺はどう思はれるか」
孔明は、笑つて、
「これは異なおことば。荊州は荊州の主権のもので、曹操のものでもなし、呉に属さねばならぬ理由もない国です」
「とは、なぜか」
「荊州の主(あるじ)、劉表は死なれた。しかし遺孤の劉琦——すなはちその嫡子はなほわが劉皇叔の許(もと)に養はれてゐる。皇叔と劉琦とは、元これ同宗の家系、叔(をぢ)甥(をひ)のあひだがら、それを扶けて、この国を復興するに、何の不道理がありませうや」
魯粛は、〔ぎく〕とした。
こゝまでの深謀が孔明にあつたとは、さすがの彼も気づかなかつたからである。
「いや。……その劉琦は、たしか江夏の城にゐると聞いてをる。よも、この荊州の主(あるじ)としては居られまい」
孔明は、左右の従者に向つて、
「——賓客には、お疑ひとみえる。琦君をこれへ」
と、小声で命じた。
やがて後(うしろ)の屛風が開くと、弱々しい貴公子が、左右の手を侍臣に取られて、数歩前に歩いて客に立礼した。見ると、まぎれなき劉琦である。
「御病中なれば、失礼遊ばされよ」
孔明のことばに、琦君は、すぐ屛(ベウ)(ママ)を塞いで奥へかくれた。魯粛は、黙然と首をたれてしまふ。孔明はなほ云つた。
「琦君、一日あれば、一日荊州の主(シユ)です。あの御病弱故、もし夭折(エウセツ)されるやうな御不幸があれば、また別ですが」
「では、もし劉琦が世を辞し給ふ日となつたら、この荊州は、呉へ還し給へ」
「公論、明論。それなら誰(たれ)も異論を立てるものはありますまい」
それから大いに馳走を出して歓待したが、魯粛は心もそゞろに、帰りを急ぎ、すぐ周癒に会つて、仔細を話した。
「——長いことはありません。劉琦の血色をみるに、近々、危篤に陥りませう。こゝしばらく」
と、宥(なだ)めてゐるところへ、折も折、呉主孫権から早馬が来て、総軍みな荊州をすてゝ柴桑まで引(ひき)揚(あげ)ろ、といふ軍令であつた。
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