吉川英治『三国志(新聞連載版)』(732)一摑三城(いつくわくさんじやう)(八)
昭和17年(1942)2月8日(日)付掲載(2月7日(土)配達)
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怪しんで、周瑜が、
「城頭に立つは、何者か」
と、壕(ほり)際(ぎは)から大音にいふと、先も大音(ダイオン)に
「常山の趙雲子龍、孔明の下知をうけて、すでにこの城を占領せり。——遅かりし周瑜都督、お気の毒ではあるが、引つ返し給へ」
と、城の上から答へた。
周瑜は仰天して、空しく駒を返したが、すぐ甘寧をよんで荊州の城へ馳せ向け、また凌統をよんで
「即刻、襄陽を奪ひ取れ」
と、命じた。
——われ、孔明に出しぬかれたり!
周瑜の心中は、すこぶる穏(おだや)かでなかつたのである。この上は、時を移さず、荊州、襄陽の二城を取つて、その後に南郡の城を取り返さうと肚を極(き)めたものだつた。
ところが
忽ち、早馬が来て
「荊州の城にもすでに張飛の手勢が入つてゐる」
と、告げた。
「げツ、何として?」
と疑つてゐるところへ、又(また)復(また)、襄陽からも早馬が飛んで来て
「時すでに遅しです。襄陽城中には、関羽の軍がいつぱいに入つて、城頭高く、玄徳の旗をひるがへしてゐる」
と、報(し)らせて来た。
その仔細を聞いてみると、孔明は南郡の城を取るや否や、すぐ曹仁の兵符(わりふ)を持たせて人を荊州に派し、
(南郡あやふし、すぐ救へ)
と云ひ送つた。
荊州城の守将は、兵符(わりふ)を信じて、すぐ救援に駈け出した。留守を測つてゐた孔明は、すぐ張飛を向けてそこを占領し、同時にまた、同様な手段で、襄陽へも人をやつた。
(われ今あやふし。呉の兵を外より破れ)
と、いう檄(ゲキ)である。
襄陽を守つてゐた夏侯惇も、曹仁の兵符(わりふ)を見ては、疑つてゐる遑(いとま)もなく、直(たゞち)に城を出で、荊州へ走つた。
かねて孔明の命をうけてゐた関羽は、すぐ後を乗つ取つてしまつた。かくて南郡、襄陽、荊州の三城は、血もみずに、孔明の一握に帰してしまつたものである。
周瑜の驚きかたは、ひと通りや二通りではない。失神せんばかり面色を変えて
「いつたい、どうして、曹仁の兵符(わりふ)(印章)が、孔明の手になんかあつたのか」
と、叫んだ。
程普が、首を垂れて云つた。
「孔明、すでに荊州を取る。荊州の城にゐた魏の長史陳矯は、城に旗の揚がるよりも先に、孔明に生(いけ)擒(ど)られてしまつたにちがひありません。兵符(わりふ)は常に、陳矯が帯びてゐたものです」
聞くや否、周瑜は
「——呀(あ)つ」
と床に仆(たふ)れた。
怒気を発したため、金瘡の口が破れたのだつた。こんどは計(はかりごと)ではない。ほんとに再発したものである。
だが、人々の看護に依つて、漸く蘇生の色をとりもどすと、周瑜はなほ牙を嚙んで、
「……だから、だからおれは疾(と)くから、孔明を危険視してゐたのだ。もし孔明を殺さずんば、いつの日かこの心は安んずべき。見よ、今に!」
と、罵つた。
そしてひたすら南郡の奪回を策してゐると、一日(あるひ)、魯粛が来て
「いかゞです。ご気分は」
と、見舞つた。
周瑜はもう寝てなど居なかつた。意気軒昂を示して
「近々のうち、玄徳、孔明と一戦を決し、かの南郡を手に入れた上はいちど呉へ帰つて少し養生しようと思ふ」
と、語つた。
すると、魯粛は、
「無用です、無用々々」
と、首を振つた。
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