吉川英治『三国志(新聞連載版)』(731)一摑三城(いつくわくさんじやう)(七)
昭和17年(1942)2月7日(土)付掲載(2月6日(金)配達)
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まだ癒えきらない裏傷(うらきず)の身に鎧甲(ガイカフ)を着けて、周瑜は剛気にも馬にとびのり、自身、数百騎をひきゐて陣外へ出て行つた。
それを見た曹仁の兵は、
「やツ周瑜はまだ生きてゐたぞ」
と、大いに怖れて動揺した。
曹仁も、手をかざして、戦場を眺めてゐたが、
「なる程、たしかに周瑜にちがひないが、まだ金瘡(キンサウ)は癒(なほ)つてをるまい。およそ金瘡の病は、気を激するときは破傷して再発するといふ。一同して彼を罵り辱しめよ」
と、軍卒どもへ命令した。
そこで、曹仁自身も先に立ち、
「周瑜(シウユ)孺子(ジユシ)。さき頃の矢に閉口したか。気分は如何。矛は持てるや」
などゝ嘲弄した。
彼の将士も、その尾について、さん/゛\悪口を吐きちらすと、忽ち、怒面を朱泥のやうにして、周瑜は、
「誰かある、曹仁匹夫の首を引き抜け」
と叫び、自身も馬首を奮ひ立てて進まんとした。
「潘璋これにあり。いでそれがしが」
と、周瑜のうしろに控へてゐた一将が、駈け出さうとする途端に、周瑜は、かツと口を開き、血でも吐いたか、矛(ほこ)を捨てゝ、両手で口を塞ぎながら、だうと、馬の背から転げ落ちた。
それと見て、敵の曹仁は、
「〔ざま〕を見よ。彼奴(きやつ)、血を吐いて死したり」
と、一斉に斬り入つて来た。
呉軍は色を失つて、総くづれとなり、周瑜の身を拾つて、陣門へ逃げこんだ。この日の敗北もまた惨たるものであつた。
憂色深き中に周瑜は取巻かれてゐた。だが、彼は案外、元気な容子で、医者のすゝめる薬湯など飲みながら、味方の諸将へ話しかけて、
「けふ馬から落ちたのは、〔わざ〕としたので、金瘡が破れたのではない。曹仁が漫罵の計を逆用して、急に血を吐いた真似をして見せたのだ。さつそく陣々に喪(も)旗(キ)を立て、弔歌を奏でゝ、周瑜死せりと噂するがいゝ」
と、云つた。
次の日の夕方ごろ、曹仁の部下が城外で、呉兵の一将隊を捕虜にして来た。訊問してみると彼等は、
「昨夜つひに、呉の大都督周瑜は、金瘡の再発から大熱を起して陣歿されました。で、呉軍は急に本国へ引揚げることに内々(ナイ/\)極(きま)つたやうですから、所詮、呉に勝目はありません。勝目のない軍について帰つても、雑兵(ザフヘイ)は、いつまで雑兵で終るしかありませんから、一同談合して降参に来たわけです。もしわれ/\をお用ひ下さるなら、今夜、呉陣へ案内いたします。喪に服して意気銷沈してゐる所へ押(おし)襲(よ)せれば、残る呉軍を殲滅し得ることは疑ひもありませぬ」
曹仁、曹洪、曹純、陳嬉(チンキ)(ママ)、牛金などは、鳩首して密議にかゝつた。その結果、深更に及んで、呉の陣へ、大襲を決行した。
ところが、陣中は、旗ばかり立つてゐて、人影もなかつた。寥々(レウ/\)として、捨て篝(かゞり)が所々に燃え残つてゐる。
「さては早、こゝを払つて、引揚げたか?」
と疑つてゐると、忽ち、東門から韓当、蔣欽。西門から周泰、潘璋。南の門からは徐盛、丁奉。北の柵門からも陳武、呂蒙などゝいふ呉将の名だゝる手勢々々が、喊(とき)を作り、銅鑼(ドラ)をたゝき、一度に取(とり)籠(こ)めて猛撃して来た為、空陣の袋に入つてゐた曹仁以下の兵は、度を失ひ、躁(さは)ぎ立つて、蜂の巣のごとく叩かれた挙句、士卒の大半を打たれて、八方へ潰乱した。
曹仁、曹純、曹洪など、みな自分等の南郡へ向つて逃げたが、途中、呉の甘寧が道をさへぎつてゐたので、城内へ入ることもできず、遂に、襄陽方面へ遁走するのほかなかつた。
死せる周瑜は生きてゐた。この夜、周瑜は十分に勝ちぬいて、意気すこぶる旺(さかん)に、程普を伴(つ)れて、乱軍の中を縦横し、いでこの上は南郡の城に、呉の征旗を高々と掲げんものと、壕(ほり)の辺まで進んで来ると、こは抑(そも)いかに、城壁の上には、見馴れない旗や幟が、夜明けの空に、翩翻(ヘンポン)と立ちならんでゐる。
そしてそこの高櫓(たかやぐら)の上には、ひとりの武将が突つ立つて、厳に城下を見下してゐた。
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