吉川英治『三国志(新聞連載版)』(730)一摑三城(いつくわくさんじやう)(六)
昭和17年(1942)2月6日(金)付掲載(2月5日(木)配達)
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壕(ほり)に陥つて死ぬ者、矢に中(あた)つて斃(たふ)れる者など、城の四門で同様な混乱に墜(おと)された呉軍の損害は、実におびたゞしい数にのぼつた。
「退鉦(ひきがね)つ。退鉦をつ」
と、程普はあわてゝ、総退却を命じてゐた。
そして、南郡の城から、思ひきつて遠く後退すると、早速、
「何よりは、都督のお生命(いのち)こそ……」
と、軍医を呼んで、中軍の帳(とばり)の内に横たへてある周瑜の矢(や)瘡(きず)を手当させた。
「あゝ、これは御苦痛でせう。鏃(やじり)は左の肩の骨を割つて中に喰ひこんでゐます」
医者はむづかしさうな顔をしかめて、患部をながめてゐたが、傍らの弟子に向つて、
「鉗(のみ)と木(き)槌(づち)をよこせ」と、云つた。
程普が驚いて、
「こらこら、何をするのだ」
と、怪しんで訊くと、医者は、患者の瘡(きず)口(ぐち)を指さして、
「ごらんなさい。素人が下手な矢の抜き方をしたものだから、矢の根本から折れてしまつて、鏃が骨の中に残つてゐるではありませんか。こんなのが一番われ/\外科の苦手で、荒療治をゐたすよりほか方法はありません」
と云つた。
「うゝむ、さうか」
と、ぜひなく唾(つば)をのんで見てゐると、医者は鉗(のみ)と槌(つち)をもつて、かん/\と骨を鑿(ほ)りはじめた。
「痛い/\つ。堪(たま)らん。やめてくれ」
周瑜は、泣かんばかり、悲鳴を発した。医者は、弟子の男と、程普に向つて、
「かう、暴れられては、手術ができません。手脚を抑へてゐてくれ」
と、その間も、こん/\木槌を振つてゐた。
荒療治の結果はよかつた。苦熱は数日のうちに癒え、周瑜はたちまち病床から出たがつた。
「まだ/\、さう軽々しく思つてはいけません。何しろ鏃(やじり)には毒が塗つてありますからな。何かに怒(いか)つて、気を激すと、かならず骨傷と肉のあひだから再び病熱が発しますよ」
医者の注意を守つて、程普はかたく周瑜を止めて中軍から出さなかつた。また諸軍に下知して、
「いかに敵が挑んで来ても、固く陣門を閉ざして、相手に出るな」
と、厳戒した。
城兵は以来ふたゝび城中に戻つて、いよ/\勢ひを示し、中でも曹仁の部下牛金は、たび/\こゝへ襲(よ)せて来ては、
「どうした呉の輩(やから)。この陣中に人はないのか。中軍は空家か。いかに敗北したからとて、いつ迄(まで)、ベソを搔いてゐるのだ。潔く降伏するなり、然らずんば、旗を捲いて退散しろ」
と、さん/゛\に悪口を吐きちらした。
けれど、呉陣は、まるでお通夜のやうにひツそりしてゐた。牛金はまた日をあらためてやつて来た。そして、前にもまさる悪口雑言を浴びせたが、
「静に。静に……」
と、程普はたゞ、周瑜の病気の再発することばかり怖れてゐた。
牛金の来訪は依然やまない。来ては辱(はづか)しめること七回に及んだ。程普はひとまづ兵を収めて、呉の国元へ帰り、周瑜の瘡(きず)が完全に癒(なほ)つてから出直さうといふ意見を出したが、諸将の衆評はまだそれに一致を見なかつた。
かゝる間に、城兵は、いよ/\足もとを見すかして、軈(やが)ては曹仁自身が大軍をひきゐて襲(よ)せて来るやうになつた。当然、いくら秘(かく)しても周瑜の耳に聞えてくる。周瑜もさすがに武人、がばと病床に身を起き直して、
「あの喊(とき)の声は何だ」
と、訊ねた。
程普が、答へて、
「味方の調練です」
と云ふと、なほ耳をすましてゐた周瑜は、俄然、起ち上がつて、
「鎧(よろひ)を出せ。剣をよこせ」
と、罵つた。そして、
「大丈夫たる者が、国を出て来たからには屍(かばね)を馬の革につゝんで本国に帰るこそ本望なのだ。これしきの負傷に、無用な気づかひはしてくれるな」
と、云ひ放ち、遂に帳外へ躍り出してしまつた。
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