吉川英治『三国志(新聞連載版)』(728)一摑三城(いつくわくさんじやう)(四)
昭和17年(1942)2月4日(水)付掲載(2月3日(火)配達)
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途中で、呂蒙が献策した。
「これから攻めに参る夷陵の南には、狭く険しい道があります。附近の谷へ五百ほどの兵を伏せ、柴(しば)薪(たきゞ)を積んで道をさへぎり置けば、きつと後でものを云ふと思ひますが」
周瑜は、容れて、
「その計もよからん」
と、手筈をいひつけ、更に、前進して夷陵へ近づいた。
夷陵の城は桶(をけ)の如く敵勢に囲まれてゐる。誰(たれ)かその鉄桶(テツタウ)の中へ入つて、城中の甘寧と聯絡をとる勇士はないか——と周瑜が云ふと、
「それがしが参らん」
と、周泰がすゝんでこの難役を買つて出た。
彼は、陣中第一の駿足を選んでそれに跨(また)がり、一鞭を加へて、敵の包囲圏へ駈けこんで行つた。
たゞ一騎、弾丸のやうに駈けて来た人間を、曹洪、曹純の部下はまさか敵とも思へなかつた。たゞ近づくや否、
「何者だつ」
「待てつ/\」
と、遮つた。
周泰は、刀を抜いて剣舞するやうにこれを馬上で旋(まは)しながら、
「遠く都から来た急使だ。曹丞相の命を帯ぶる早馬なり、貴様たちの知つたことぢやないつ。近づいて蹴殺されるな」
と、喚(わめ)き/\、疾走して行つた。
その勢ひで、二段三段と敵陣を駈け抜けてしまひ、遂に、夷陵の城下へ来て、
「甘寧、城門を開けてくれ」
と、どなつた。
櫓からそれを見た甘寧は、どうして来たかと、驚いて迎へ入れた。周泰は云つた。
「もう大丈夫。安心しろ。周都督が御自身で救ひに来られた。そして作戦はかう……」 と、一切を諜(しめ)し合ひ、こゝに完全な聯絡をとつた。
きのふ、をかしな男が、たゞ一騎、城中へ入つたといふし、それから俄然城兵の士気が昂(あが)つてゐるのを眺めて、寄手の曹洪、曹純は、
「これはいかん」
と、顔見あはせた。
「周瑜の援軍が近づいた證拠だ。ぐづ/\してをれば挟撃を喰(く)ふ。どうしよう?」
「どうしようと云つても急には城も陥ちまい。甘寧をわざと城へ誘ひこんで袋叩きにするといふ策は、名案に似て、実は下(ゲ)の下策だつたな、かう成つてみると」
「今さらそんな繰言(くりごと)を云つてみても仕方はない。南郡へも使が出してあるから、兄の曹仁から加勢に来るのを待つとするか」
「ともかくも一両日、頑張つてみよう」
何ぞ無策なると心ある者なら歯(は)痒(がゆ)く思つたにちがひない。すぐ次の日にはもう周瑜の大軍がこゝへ殺到した。曹洪、曹純、牛金などあわてふためいて戦つたものゝ、元より敵ではなかつた。陣を崩して忽ち敗走の醜態を見せてしまふ。
のみならず、周瑜の急追をよけて、山越えに出たはいゝが、途中のけはしい細道までかゝると、道に積んである柴や薪に足をとられ、馬から谷へ落ちる者や、自ら馬をすてゝ逃げ出すところを討たれるやらで、散々な態(テイ)になつてしまつた。
呉の軍勢は、勝に乗つて、途中、敵の馬を鹵獲(ロクワク)すること三百餘頭、更に進撃をつゞけて、遂に南郡城外十里まで迫つて来た。
南郡の城に入つた曹洪、曹純などは、兄の曹仁を囲んで、暗澹たる顔つきを揃へてゐた。今にして、この一族が悔いあふてゐることは、
「やはり丞相のおことばを守つて、絶対に城を出ずに、最初からたゞ城門を閉ぢて守備第一にしてをればよかつた」
といふ及ばぬ愚痴だつた。
「さうだ!忘れてゐた」
曹仁は、その愚痴からふと思ひ出したやうに、膝を打つた。それは曹操が都へ帰る時、いよ/\の危急となつたら封を開いてみよ、と云つて遺(のこ)して行つた一巻の中である。その中にどんな秘策が認(したゝ)めてあるかの希望であつた。
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