吉川英治『三国志(新聞連載版)』(727)一摑三城(いつくわくさんじやう)(三)
昭和17年(1942)2月3日(火)付掲載(2月2日(月)配達)
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「この上は、自身、南郡の城を一揉みに踏みつぶしてみせる」
周瑜は、怒(いか)つた後で、かう豪語した。
こゝ連戦連勝の勢ひに誇つてゐたところなので、蔣欽の些細な一敗も、彼にはひどくケチがついたやうな気がしたものとみえる。
「御自身、軽々しい戦ひはまづ為さらぬ方がよいでせう」
諫めたのは、甘寧である。
甘寧は、説いた。
「南郡と掎角(キカク)の形勢を作つて、一方、夷陵の城も戦備をかためてゐます。そしてそこには、曹仁と呼応して、曹洪がたて籠つてゐますから、迂闊に南郡だけを目がけてゐると、いつ如何なる変を起して、側面を衝いて来るかもしれません」
「——では、どうしたがいゝか」
「それがしが三千騎を拝借して、夷陵の城を攻破りませう」
「よし。そのまに、南郡の城は、わが手に片づける」
手配は成つた。
甘寧は、江を渡つて、夷陵城へ攻めかゝつた。
南郡の城の櫓から、それを眺めた曹仁は驚いた。
「これはいかん。寄手の一部が夷陵へ迫つた。夷陵の曹洪は困るだらう。何しろまだ防備が完全でないから」
と、陳矯に、急場の処置を諮つたところ、
「御舎弟の曹純どのに、牛金を副将とし、直(たゞち)に急援をおつかはしになつたらよいでせう。夷陵の城が陥ちたら、この南郡城も瀕死になります」
と、彼もあわて出した。
そこで曹純と牛金は、にはかに夷陵の救ひに馳せつけた。曹純は外部から城内の曹洪と聯絡をとつて、
「力に依らず、謀略を主として、敵を欺(あざむ)かうではないか」
と、一計を約束した。
甘寧は、それとも知らず、前進また前進をつゞけ、敗走する城兵を追ひこんで、
「意外に脆いぞ」
と、一挙、占領にかゝつた。
曹洪も出て奮戦したが、実は、策なので、忽ち支へ難しと見せかけて、城を捨てゝ逃げた。
日暮れに迫つて、甘寧の軍勢は、残らず城内へなだれ入り、凱歌をあげて、誇つてゐたが、何ぞ測らん、曹純、牛金の後詰が、諸門を包囲し、また曹洪も引つ返して来て、勝手を知つた間道から糧道まで、すべて外部から遮断してしまつたので、寄手の甘寧と曹純はまつたく位置を更へて、孤城の中に封じこまれてしまつた。
この報(しら)せが、呉軍に聞えたので、周瑜は重ね/゛\眉をしかめ、
「程普。何か策はないか」
と、評議に集つた面々を見まがした。
程普は云ふ。
「甘寧は、呉の忠臣、見殺しはできません。然りといへど、今、兵力を分けて、夷陵へかゝれば、敵は南郡の城を出て、わが軍を挟撃して来ませう」
呂蒙がそれにつゞいて、かう意見を吐いた。
「こゝの抑へは、凌統に命じて行けば、充分に頑張りませう。やはり甘寧を救ふのが焦眉の急です。てまへに先鋒をお命じあつて、都督がお続きくださるなら、必ず十日以内に、目的は達せられるかと思はれるが……」
周瑜はうなづいて、更に、
「凌統。大丈夫か」
と、念を押した。
凌統は、ひきうけたが、
「——但し、十日間がせい/゛\です。十日は必ず頑張つて御覧に入れますが、それ以上日数がかかると、それがしはこゝで討死のほかなきに至るかもしれません」と、云つた。
「そんなに日の費(かゝ)るほどな敵でもあるまい」
と、周瑜は、兵一万に凌統をあとに残して、そのほかの主力をことごとく夷陵方面へうごかした。
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