吉川英治『三国志(新聞連載版)』(726)一摑三城(いつくわくさんじやう)(二)
昭和17年(1942)2月1日(日)付掲載(1月31日(土)配達)
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【前回迄の梗概】曹操百万の大軍も赤壁の一戦に呉の周瑜の火計にかゝつて大敗し、命からがら北へ逃げ帰る。周瑜は荊州を併呑せんとしてゐる。この地はまた劉玄徳の望むところ、こゝに反曹陣営にまたも対立が生じるが、孔明は玄徳をなだめ荊州南郡城に入る計を立てる……
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周瑜は、自軍の陣へ還(かへ)ると、すぐに南郡城へ向つて、猛烈な行動を起すべく、指令を出してゐた。
魯粛がその間に云つた。
「玄徳とお会ひなされた折、なぜ彼に対してもし呉軍の手に餘るときは、そつちで南郡を攻取るも随意だ——などゝ云はれたのですか」
「それは君、ことばの上だけのものさ。人情の餘韻を残すといふものだ。すでに赤壁に於(おい)てすらあの大捷(タイセフ)を博した我軍のまへに、南郡の城のごときは鎧袖(ガイシウ)一触、あんなものを取るのは手を反(かへ)すよりやさしいことぢやないか」
先手五千の兵には、蔣欽が大将として進み、副将丁奉、徐盛それにつゞき、周瑜の中軍も前進して、堂々城へ迫つた。
このとき迄(まで)、城中の曹仁は、曹操の残して行つた誡(いまし)めを鉄則として、
「出るな。守れ」
の一方でたゞ要害をきびしくするに汲々としてゐたが、部下の牛金(ギウキン)はしきりに勧めた。
「要害の守りといふものは或る期間だけのものです。古来、陥ちない城といふものはない。いますでに呉軍が城下に迫つてゐるのに、城を出てこれを撃つといふ変もなければ、城中の士気は、消極的になるばかりで、所詮、長く持てるものではありません」
「それも一理ある」
曹仁は、牛金の乞ひを容れて、兵五百をさづけ、機を計つて奇襲を命じた。
牛金は、城門から突出して、敵の先鋒、丁奉の軍を蹴散らした。丁奉は、牛金を目がけて、一騎打を挑んだが、忽ち後を見せて逃げ出した。
牛金の五百騎は、逃げる丁奉を追ひ捲(まく)つて、つい深入りした。遽(にはか)に、さつと回(かへ)した丁奉軍は、鼓(コ)を鳴らして、味方を糾合し、追ひ疲れた牛金軍五百を袋の中の鼠としてしまつた。
「戦況いかに?」
と、城中の櫓から眺めてゐた曹仁は、牛金の危急を見て、自身手勢を率ゐて、救ひに出ようとした。
すると、長史(チヤウシ)陳矯(チンケウ)が、
「丞相がこの城を託して都へ帰らるゝ時、何と宣(のたま)はれましたか」
と、口を極めて、軽率な戦ひを諫めた。
だが、曹仁は、
「牛金は大事な大将だし、部下五百は、城中で重きをなす精鋭ばかりだ。それを見殺しにするは、この城の自殺にひとしい」
とばかり、耳もかさず、馬に打乗り、屈強な兵千餘を率ゐて、城外へ渦まき出たので、陳矯もやむなく櫓へ駈けのぼり、太鼓を打つて勢ひを添へた。
かくて、曹仁は、呉軍の真只中へ馳け入つて、まづ徐盛の一角を蹴破り、牛金と合流して、首尾よく彼を救ひ出した。
けれどまだ、あと五、六十騎の者が、重囲の中に残されてゐるのを知ると、
「よしつ、もう一度行つて来る」
と、ふたゝび馳け入り、あとの者をも一人も餘さず救出して帰つて来た。
すると、呉の先鋒の大将蔣欽が、道をさへぎつて、曹仁を討ち止めようと試みた。けれど曹仁の勇は、それらの阻害を物ともせず、四角八面に奮戦し、また牛金もそれを助け、城中からも曹仁の弟の曹純(サウジユン)が加勢に出て、むらがる敵へ当つたので、遂に、その日は首尾よく、目的を達して、
「曹仁こゝにあり」
の重きを敵へ知らしめた。
で、城中では、その夜、
「まづ、合戦の幸先はいゝぞ」
と、大いに勝戦(かちいくさ)を賀して、杯をあげてゐたが、それに反して、序戦に敗れた呉軍の営内では、
「敵に数倍する勢を擁しながら、しかも城中から出て来た兵に不意を衝かれるとは何たる醜態(ぶざま)だ」
と、蔣欽、徐盛のともがらは、都督周瑜の面前で、その責(せめ)を問われ、さん/゛\痛罵されてゐた。
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なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。

