吉川英治『三国志(新聞連載版)』(725)一摑三城(いつくわくさんじやう)(一)
昭和17年(1942)1月31日(土)付掲載(1月30日(金)配達)
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一方、孫乾は油江口にある味方の陣に帰ると、すぐ玄徳に、帰りを告げて、
「いづれ周瑜が自身で答礼に参ると云つてをりました」
と、話した。
玄徳は、孔明と顔見合わせて、
「これほどな儀礼に、周瑜が自身で答礼に来るといふのはをかしい。何の為に来るのであらう」
「もちろん、南郡の城が気にかゝるので、こちらの動静を見に来るのでせう」
「もし兵を率ゐて来たらどうしようか」
「御心配はありません。まづこんどは探りだけのことでせう。御対談のときには、かやうにお答へ遊ばされい」
孔明は、何事か囁(さゝや)いた。
先触れのあつた日、油江口の岸には、兵船をならべ、軍馬兵旗を整々と立てゝ、周瑜の着くのを待つてゐた。
周瑜は、随員と守護の兵三千騎を連れて、船から上陸した。——見るに、陸上にも江辺にも、兵馬や大船が整然と旗幟をそろへてゐるので、
「案外、馬鹿にはならぬ兵力を持つてをるな」
と云はんばかりな流し目をくばりながら、趙雲の一隊に迎へられて、陣の轅門(ヱンモン)へ入つて行つた。
もちろん、玄徳、孔明、その他の部将は、篤く出迎へ、大賓の礼をとつて、会宴の上座へすゝめた。
酒、数巡。
玄徳は杯をあげて、しきりに、赤壁の大勝を激賞しながら、
「ときに、引続いて、江北へ御進撃と承り、いさゝか戦ひのお手助けを申さんと、急遽、この油江口まで陣を進めて来ましたが、もし周都督のほうで、南郡をお取りになる御意志がなければ、玄徳の手をもつて、攻め取りますが」
と、軽く云つた。
すると、周瑜も、気軽に笑つて、戯れた。
「どう致しまして——。とんでもない。呉が荊州を併呑せんと望んでゐたことは実に久しいものです。いま、南郡はすでに、呉の掌(たなごゝろ)にあるものを、決して、御心配下さるに及ばん」
「けれど、世の諺(ことわざ)にも、掌中ノモノ必ズシモ掌中ノ物ナラズ——といふ事もあります。曹操が残して行つた曹仁は北国の万夫不当。おそらく周都督のお手には易々と落ちないのではないかと案じられますが」
周瑜は、眉のあひだに、憤然と憤炎をあらはしたが、すぐ皮肉な嘲笑にそれを代へて、
「もし、それがしの手に奪(と)れなかつたら、あなたの手で奪つたらよからう」
「ほ。さうですか。それは忝(かたじけ)ない。——こゝには、魯粛、孔明といふ生證人もゐること、都督の今のおことばをよく聞いておいてもらひたい」
「大丈夫の一言、何の、證人などが要らう」
「あとで御後悔はありますまいな」
「ばかな」
周瑜は、一杯を干して、又一笑した。
そのそばから孔明はかう云つて、旺(さかん)に、周瑜の言を賞(ほ)めあげた。
「さすがに、周都督の一言は、呉の大国たる貫禄を示すに餘りある公論といふものです。荊州の地は、当然まづ呉軍からお攻めあるのがほんとです。そして万が一にも、呉の手に餘つたときは、劉皇叔が試みにそれを攻め取つてみられるがよいでせう」
周瑜らが帰つた後である。
玄徳は、嘆かはしい顔して、孔明に責めた。
「——周瑜と対談の時は、あゝ云へ、かう答へよと、先生がこの玄徳に教へたので、予はその通りに応対してゐた。それなのに、先生自身、周瑜に向つて、南郡を取れと云はんばかり励まして帰したのは一体どういふつもりか」
「その以前、私が荊州をお取りなさいと、あんなにおすゝめ申したのに、君にはさらに耳へお入れなかつた」
「わが一族、わが味方、拠るに地もなく、殆(ほとん)ど今は孤窮の境界。むかしを問うてくれるな。事情も変つてゐる」
「御心配には及びません。べつに孔明に一計があります。近いうちに必ず君を南郡城に入れて御覧にいれまする」
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