吉川英治『三国志(新聞連載版)』(724)功なき関羽(五)
昭和17年(1942)1月30日(金)付掲載(1月29日(木)配達)
ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
前回はこちら → 功なき関羽(四)
***************************************
孔明がこれほど心から怒(いか)つたらしい容子を見たのは、玄徳も初めてゞあつた。
めつたに怒(いか)らない優しい人が怒(いか)つたのは、ふつうの者の間でも怖しい気がするものである。いはんや軍師の座にあつて、謹厳おのれを持(じ)していやしくもせず、日頃は餘り大きな声すら出さない孔明が、断乎、斬れ!と命じたのであるから、人々みな慄然と恟(すく)み立つて、どうなることかと思つてゐた。
「軍師——」
と、急に彼のまへに迫つて、膝を曲げないばかりに愍(あは)れみを仰(あふ)ひだのは、当の関羽ではなくて、玄徳であつた。
「わしと、関羽とは、むかし桃園に義を結んで、生死も倶(とも)にせんと誓つてある。いはば関羽の死はわしの死を意味する。けふの罪は赦(ゆる)しがたいものに違ひないが、わしに免じて——いやわしにその罪科(とが)をしばし預けてくれい。後日、かならずこの罪を償ふほどの大功を挙げさせるから。……軍師、大法を歪曲するのではなく、仮にしばらくその法断を待つて欲しいのぢや。たのむ」
身、主君たる位置にありながら、玄徳は、臣下の一命のために、臣下に対して、ひれ伏さないばかりであつた。
何でそれまでを、孔明とて一蹴できよう。彼はわづかに面(おもて)をそむけて
「赦すことはできません。軍紀は飽(あく)まで厳然たる軍紀ですが、思し召のまゝ暫時、処断は猶豫しませう。関羽の罪は、おあづけしておきます」
と遂に云つた。
× ×
× ×
数万人の捕虜は、赤壁から呉へ運ばれて行つた。
呉軍は、その総てを包有して、一躍大軍となり、また整備を増強して、江北へ押渡つて来た。
「玄徳から賀使が見えました。家臣の孫乾といふ者が、贈り物を献じ、戦勝のお祝ひを述べるためにと——玄徳の使で」
中軍にある周瑜のところへ、或る日、かういふ取次があつた。赤壁の大戦捷に、周瑜ばかりでなく、呉軍全体は、破竹の勢ひを示し、士卒の端にいたるまで、無敵呉軍の誇りに燃えて、当るべからざるものがある。——この図に乗せてと、周瑜は、南郡へ攻略をすすめ、五ケ所の寨(とりで)を粉砕して、いまやそこの南郡城に肉迫して陣を取つた日であつた。
「ほう、玄徳からとな?……さうか、すぐ通せ」
周瑜のことばに、使者孫乾は、直(たゞち)に案内されて来た。
四方山(よもやま)の話のすゑに、周瑜は孫乾(ソンカン)(ママ)にかうたづねた。
「御主君の玄徳や孔明は、目下どこに居られるか」
「されば、油江口(ユカウコウ)に居られます」
「えつ、油江口に?」
何か、驚いたらしい顔である。それからは、話も弾まなかつたが、宴の終る頃、
「いづれ、それがし自身、御返礼に出向くであらう。よろしく申し伝へてくれ」
と、追ひ帰すやうに、孫乾を帰した。
あくる日。——魯粛が、
「都督、きのふは、何であんな意外なお顔をなすつたのですか」
「ムム。玄徳が油江口にをる事でか。——それは聞き捨て成らんではないか」
「なぜです」
「彼が油江口へ陣を移したとすれば、それは明らかに、南郡を攻め取らうといふ野心があるからだ。われわれ呉軍が、莫大な軍馬銭粮を消費して、赤壁に勝つても、まだその戦果はつかんでをらぬ。——それを玄徳に先んじられては何の為に戦つたか、意味をなさぬことになる」
「その儀は、疾(と)くから私も、油断がならんと思つてゐました」
「さつそく、玄徳の陣を訪問したうへ、一本釘を打つておかう。——供の兵馬や贈り物の準備をしてくれい」
「承知しました。私も共に参りませう」
***************************************
次回 → 一摑三城(いつくわくさんじやう)(一)(2026年1月30日(金)18時配信)

