吉川英治『三国志(新聞連載版)』(723)功なき関羽(四)
昭和17年(1942)1月29日(木)付掲載(1月28日(水)配達)
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この荊州の南郡から襄陽、合淝(ガウヒ)の二城をつらねた地方は、曹操にとつて、今は、重要なる国防の外郭線とはなつた。
で、曹操は、都に帰るに際して、ふたゝび曹仁へかう云ひ残した。
「この一巻のうちに、細々(こま/゛\)と、計策(はかりごと)を書いておいたから、もしこの城の守りがいよ/\危急に迫つた時は、これを開いて、わが言をなし、すべて巻中の策に従つて籠城いたすがよい」
また、襄陽城の守備としては、夏侯惇をあとに留め、合淝(ガウヒ)地方は、殊(こと)に、重要な地とあつて、それへは、張遼を守りに入れた。さらに楽進(ラクシン)(ママ)、李典(りてん)の二名を副将としてそれに添へた。
かう万全な手配りをすまして、曹操はやがてこゝを去つたが、左右の大将も士卒もあらかた後の防ぎに残して行つたので、その時、曹操に従つて都へ回(かへ)つた数は、わづか七百騎ほどに過ぎなかつたといふ。
その頃——
夏口城の城楼には、戦捷(センセフ)の凱歌が沸いてゐた。
張飛、趙雲、そのほかの士卒は、みな戦場から立帰つて、敵の首級や鹵獲品(ロクワクヒン)を展じて、軍功帳に登録され、その勲功(いさをし)を競つてゐた。
閣の庁上では、玄徳を中心に、孔明も立つて、戦勝の賀をうけてゐたが、折ふしこゝへ、関羽もその手勢と共に戻つて来て、悄然と、拝礼した。
「おゝ、羽将軍か。君にも待ちかねてお在(は)したぞ。曹操の首を引つさげて来たものはおそらくあなたであらう」
「……」
「将軍。どうして、そのやうに不興気な顔をして俯(うつ)向(む)いておらるるか。いざ、功を述べて、勲功帳に記録を仰ぎたまへ」
「いや、……べつに何も……」
関羽は益々、うな垂れてゐるのみで、そのことばさへ、女のやうに低かつた。
孔明は、眉をひそめながら、
「どうなされたのか。べつに何も……とは?」
「実は。……それがしのこれに来たのは、功を述べるためではなく、罪を請ふためでござる。よろしく軍法に照らして罰せられたい」
「はて。……では、曹操はついに華容の道へは逃げ落ちて来なかつたと云はるゝか」
「軍師の御先見にたがはず、華容道へかゝつては来ましたが、それがしの無能なるため、討ち洩らしてござる」
「なに、討ち損じたと。……あの赤壁から潰走した敗残困憊の兵でありながら、なほ羽将軍の強馬精兵をも近づけぬほど、曹操はよく戦つたと申さるゝか」
「……でも、御座らぬが。……つい、取り逃がしました」
「然らば、曹操は討たずとも、その手下の大将や士卒は、どれほど討ち取られたか」
「ひとりも生捕りません」
「挙げたる首級は」
「一箇も無し——でごさる」
「ウーム。……さうか」
孔明は、口をつぐんで、あとはたゞその澄んだ眸(ひとみ)をもつて、彼をながめてゐるだけだつた。
「関羽どの」
「はい」
「さては御辺には、むかし曹操よりうけた恩を思うて、故意に、曹操の危難を見のがされたな」
「今更、何のことばも御座りませぬ。たゞ御推量を仰ぐのほかは……」
「だまれつ」
孔明は、その白皙(ハクセキ)な面(おもて)に紅(くれなゐ)を呈して、一喝、叱るやいな、座後(ザゴ)の武士を顧みて、命じた。
「王法は、国家の典形。私情をもつて、軍令を無視した関羽の罪はゆるされん。諸君つ!斬り捨ていツ、この柔弱漢を!」
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次回 → 功なき関羽(五)(2026年1月29日(木)18時配信)

