吉川英治『三国志(新聞連載版)』(722)功なき関羽(三)
昭和17年(1942)1月28日(水)付掲載(1月27日(火)配達)
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——ふと見れば、曹操のうしろには、敗残の姿も傷(いた)ましい彼の部下が、みな馬を降り、大地に跼(ひざま)づき、涙を流して関羽の方を伏し拝んでゐた。
「あはれや、主従の情。……どうしてこの者共を伐(う)つに忍びよう」
遂に、関羽は情に負けた。
無言のまゝ、駒を取つて返し、わざと味方の中へ交じつて、何か声高に命令してゐた。
曹操は、はつと我に回(かへ)つて、
「さては、この間に逃げよとのことか」
と、士卒と共に、あわたゞしくこゝの峠から駈け降つて行つた。
すでに曹操らの主従が、麓の方へ逃げ去つた頃になつて関羽は、
「それ、道を塞(ふさ)ぎ取れ」
と、殊(こと)さら遠い谷間から廻り道して追つて行つた。
すると、途中、一軍の見(み)惨(じ)めなる軍隊に行き会つた。
見れば、曹操のあとを慕つて行く張遼の一隊である。武器も持たず馬も少く、負傷してゐない兵は稀だつた。
「あゝ惨たるかな」
と、関羽は、敵のために涙を催し、長嘆(チヤウタン)一声(イツセイ)、すべてを見(み)遁(のが)して通した。
張遼と関羽とは、旧(ふる)くからの朋友である。実に、情の人関羽は、この悲境の友人を、捕捉して殺すには忍びなかつたのである。——おそらく張遼もそれを知つて、心のなかで関羽を伏し拝みながらこの死線を駈け抜けて行つたらうと思はれる。
かうして虎口の難をのがれた張遼は、やがて曹操に追ひついて合体したが、両軍合せても五百に足らず、しかも一(ひと)条(すじ)の軍旗すら持たなかつたので、
「噫(あゝ)。かくも、悲惨な敗北を見ようとは……」
と、相顧みて、しばし惆然(チウゼン)としてしまつた。
この日、夕暮に至つて、また行手の方に、猛気(マウキ)旺(さかん)な一軍の来るのとぶつかつたが、これは死地を設けてゐた伏勢ではなく、南郡(湖北省・江陵)の城に留守してゐた曹一族の曹仁が、迎へに来たものであつた。
曹仁は、曹操の無事な姿を見ると、欣(うれ)し泣きに泣いて、
「赤壁の敗戦を聞き、すぐにも駈けつけんかと思ひましたが、南郡の城を空けては、後の守りも不安なので、たゞ御安泰のみを祈つてゐました」
と、曹操が生きて帰つてくれた事だけでも、無上の歓喜として、今は却(かへ)つて怨むことも知らなかつた。
曹操もまた、
「今度ばかりは、二度とこの世でそちに会ふことも無いかと思つた」
と、語りながら、共に南郡の城へ入つて、赤壁以来、三日三夜の疲れを医し、漸く、生ける身心地をとり戻した。
戦塵の垢(あか)を洗ひ、暖い食物を摂り、大睡(タイスヰ)一快をむさぼると曹操は忽然、天を仰いで、
「……噫(あゝ)。噫」
と、嗚咽(ヲエツ)せんばかり、涙を垂れて哭いた。
付添ふ人々は、怪(あやし)んで、彼に問うた。
「丞相、どうして、そんなにお哭(な)きになるんです。たとへ赤壁に大敗なされても、この南城に入るからには、人馬も武器も備はつてゐるし、いつか再挙の日もありませうに」
すると曹操は、かぶりを振りながら、
「夢に故人を見たのだ。——遼東の遠征に陣没した郭嘉(かくか)が、もし今日生きてゐたらと思ひ出したのだ。予も愚痴をいふ年齢(とし)になつたかと思ふと、それも悲しい。諸将よ、笑つてくれ」
と、胸を打つて、
「哀しいかな郭嘉。痛ましい哉(かな)、奉考(ホウカウ)(ママ)……あゝ去つて再び回(かへ)らず」
それから、曹仁を近く呼んで
「予に生命(いのち)のある限り、赤壁の恨みは必ず、敵国に報いずには措(お)かん、今は、しばらく都へ帰つて、他日の再軍備にかゝるしかない。汝はよく南城を守つてゐてくれよ。やがて敵の襲撃に会つてもかならず守るを旨とし、城を出て戦つてはならんぞ」
と、諭した。
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