吉川英治『三国志(新聞連載版)』(720)功なき関羽(一)
昭和17年(1942)1月25日(日)付掲載(1月24日(土)配達)
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難路へかかつた為、全軍、まつたく進退を失ひ、雪は吹(ふ)り積もるばかりなので、曹操は焦(いらだ)つて、馬上から叱つた。
「どうしたのだ、先鋒の隊は」
前隊の将士は、泣かんばかりな顔を揃へて、雪風(セツプウ)の中から答へた。
「ゆうべの大雨に、諸所、崖はくづれ、道は消え失せ、それに至るところ渓川(たにかは)が生じてしまつたものですから、馬も渡すことができません」
曹操は、疳癪(カンシヤク)を起して、
「山に会うては道を拓(ひら)き、水に遭うては橋を架す。それも戦(いくさ)の一つである。それに対(むか)つて、戦ひ難いなどゝ、泣面をする士卒があるかつ」
そして、彼自身、下知にかゝつた。傷兵老兵はみな後陣へ引かせ、屈強な壮士ばかりを前に出して、附近の山林を伐(き)つて橋を架け、柴や草を刈つて、道を拓き、また泥濘を埋めて行つた。
「寒気(カンキ)に怯(ひる)むな。寒かつたら汗の出るまで働け。生命が惜しくば怠るな。怠る者は、斬るぞ」
剣を抜いて、彼は、土工を督した。泥と戦ひ、渓流と格闘し、木材と組み合ひながら、まるで田圃(たんぼ)の水牛みたいになつて働く軍卒の中には、このとき飢餓と烈寒のため、斃(たふ)れ死んだ者がどれほどあつたか知れない程であつた。
「あはれ、矢石(シセキ)の中で、死ぬものならば、まだ死に〔がひ〕があるものを」と、天を恨み、また曹操の苛烈な命令に喚く声が、全軍に聞えたが、曹操は耳にもかけず、却(かへ)つて怒り猛つて、
「死生自ら命ありだ。なんの怨むことやある。ふたゝび哭く者は立ちどころに斬るぞ」
と、云つた。
かうして、凄まじい努力とそれを励ます叱咤で、からくも漸く第一の難所は越えたが、残つた士卒をかぞへてみるとわづか三百騎足らずとなり終つてゐた。
殊(こと)に、その武器と獲物なども今は、携つてゐる者すらなく、まるで土中から発掘された泥人形の武者や木偶(でく)の馬みたいになつてゐた。
「もうわづかだ。目的の荊州までは、難所もない」
曹操は、鞭を指して、将士のつかれた心を彼方(あなた)へ向けさせ、
「あとは、たゞ一息だ。はやく荊州へ行き着いて、大いに身を休めよう。頑張れ、もう一息」
と、励ました。
そして、峠を越え、約五、六里ばかり急いで来ると、曹操は又、鞍を叩いて独り哄笑してゐた。
諸将は、曹操に向つて、
「丞相。何をお笑ひなさいますか」
と、訊ねた。
曹操は、天を仰いで、なほ、大笑しながら、
「周瑜の愚、孔明の鈍、いまこの所へ来て覚(さと)つた。彼、偶然にも、赤壁の一戦に、我を敗つて、勢ひ大いにふるふと雖(いへど)も、要するに弓(ゆみ)下手(べた)にもまぐれ中(あた)りのあるのと同じだ。——もしこの曹操をして、赤壁より一気に、敗走の将を追撃せしめるならば、この辺りには必ず埋兵潜陣の計を設けて、一挙に敵のこと/゛\くを生捕るであらう。——さはなくて、無益な煙を諸所にあげ、われをして平坦な大道の方に誘ひ、この山越えを避けしめんなど、まるで児(こ)ども騙(だま)しの浅い計といつていゝ」
と、気焰を吐き、さらに、
「これが可笑(をか)しくなくてどうするか。あはゝゝ、わはゝゝ」
と、肩を揺すぶりぬいた。
ところが、その笑ひ声の熄(や)まないうちに、一発の鉄砲が彼方の林にとゞろいた。忽ちに見る前面、後方、ふた手に分れて来る雪か人馬かと見紛ふばかりな鉄甲陣。そのまつ先に進んで来るのは紛れもなし、青龍の偃月刀をひつさげ、駿足赤兎馬に踏み跨つて来る美髯将軍——関羽であつた。
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なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。

