吉川英治『三国志(新聞連載版)』(719)山谷(さんこく)笑ふ(四)
昭和17年(1942)1月24日(土)付掲載(1月23日(金)配達)
ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
前回はこちら → 山谷笑ふ(三)
***************************************
「張飛だつ」
名を聞いただけでも、諸将は胆(きも)を冷やした。士卒たちは皆、甲(よろひ)や下着を火に乾してゐたところなので、周章狼狽、赤裸(あかはだか)のまゝで散乱するもある。
許褚のごときも、
「丞相の危機。近づけては」
と、あわてゝ、鞍もない馬へ飛び乗り、猛然、駈け寄つて来た張飛の前に立つて戦ひ、やゝ暫(しば)し、喰ひ止めてゐた。
その間に、
「すはこそ」
と、張遼、徐晃など、辛(から)くも鎧を取つて身に被(かぶ)り、曹操を先へ逃がしておいてから、馬を並べて、張飛へ蒐(かゝ)つて行つた。
とはいへ、張飛の揮(ふ)りまはす一丈八尺の蛇矛(ジヤボウ)には、当るべくもない。その敵を討つといふよりは、彼の猛烈な突進を、少しの間でも防ぎ支へてゐるのが〔やつと〕であつた。
曹操は、耳をふさぎ、眼をつぶつて、数里の間は生ける心地もなくたゞ逃げ走つた。やがてちりぢりに味方の将士も彼のあとを慕つて追ひついて来たが、どれを見ても、傷(て)を負つてゐない者はない有様だつた。
「また岐(わか)れ路へ出た。この二(ふた)条(すぢ)の道は、どつちへ向つたがよいか」
曹操の質問に、
「いづれも南郡へ通じてゐますが、道幅の広い大道の方は五十里以上も遠道になります」
と、地理に詳しい者が答へた。
曹操は聞くと、うなづいて、山の上へ部下を走らせた。部下は立ち帰つて来てから復命した。
「山路(やまぢ)の方を窺(うかゞ)つてみますと、彼方の峠や谷間の諸所から、仄(ほの)かに、人煙がたち昇つてをります。必定、敵の伏兵がをるに違ひございません」
「さうか」
と、曹操は、眉根をきつと落着けて、
「しからば、山路(やまぢ)を経て行かう。者共、山越えしてすゝめ」
と、先手の兵へ下知した。
諸大将は驚きかつ怪(あやし)んで、
「山路(やまぢ)の嶮(ケン)を擁して、みす/\伏兵が待つを知りながら、この疲れた兵と御身をひつさげて、山越えなさんとは、如何なる御意志によるものですか」と、駒を抑えて質(たゞ)した。
曹操は、苦笑を示して、
「我れ聞く。この華容道とは、近辺に隠れなき難所だといふことを。——それ故に、わざと、山越えを選ぶのだ」
「敵の火の手を御覧ありながら、しかもその嶮へ向はれようとは、餘りな物好きではありませんか」
「さうでない。汝等も覚えておけ。兵書に曰(い)ふ。——虚ナル則(トキ)ハ実トシ、実ナル則ハ虚トス、と。孔明は至つて計の深いものであるから、思ふに、峠や谷間へ、少しの兵をおいて煙をあげ、わざと物物しげな兵気を見せかけ、この曹操の選ぶ道を、大路の条(すぢ)へ誘ひこみ、却(かへ)つて、そこに伏兵をおいて我を討止めんとするものに相違ない。——見よ、あの煙の下には、真の殺気は漂つてゐない。かれが詐謀たること明瞭だ。それを避けて、人気(ひとけ)無しなどゝ考へて大路を歩まば、忽ち、以前にもまさる四面の敵につゝまれ、一人も生きるを得ぬことは必定である。あやふい哉(かな)/\、いざ疾(と)く、山道へかゝれ」
と、云つて駒をすゝめたので、諸人みな、
「さすがは丞相の御深慮」
と、感服しないものはなかつた。
かうしてゐる間にも、後から後から、残兵は追ひつき、今は敗軍の主従一団となつたので、
「はやく荊州へ行着きたいものだ。荊州まで辿り着けば、何とかならう」
と、喘ぎ/\華容山麓から峰越えの道へ入つた。
けれど気はいくら焦心(あせ)つても、馬は疲れぬいてゐるし、負傷者も捨てゝは行けず、一里登つては休み、二里登つては憩ひ、十里の山道を喘ぐうち、もう先陣の歩みは、まつたく遅々として停つてしまつた。——折から山中の雲気は霏々(ヒヽ)として白い雪をさへ交(まじ)へて来た。
***************************************
次回 → 功なき関羽(一)(2026年1月24日(土)18時配信)

