吉川英治『三国志(新聞連載版)』(717)山谷(さんこく)笑ふ(二)
昭和17年(1942)1月22日(木)付掲載(1月21日(水)配達)
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そこで曹操主従はまた一団になつて、東北へ東北へとさして落ちのびた。
すると、一(イツ)彪(ペウ)の軍馬が、山に拠つて控へてゐた。
「敵か」
と、徐晃、張遼などが、ふたゝび苦戦を覚悟して物見させると、それはもと、袁紹の部下で、後、曹操に降(くだ)り、久しく北国の一地方に屈踞(クツキヨ)してゐた馬延(バエン)と張顗(チヤウギ)のふたりだつた。
ふたりは、早速、曹操に会ひに来た。そして云ふには、
「実は、われわれ両名にて、北国の兵千餘を集め、烏林の御陣へお手伝いに参らんものと、これまで来たところ、昨夜来の猛風と満天の火光に、行軍を止め、これに差控へて万一を備へてゐたわけです」
曹操は大いに力を得て、馬延、張顗に道を開かせ、そのうち五百騎を後陣として、こゝからは少し安らかな思ひで逃げ落ちた。
そして十里ほど行くと、味方の倍もある一軍が、真つ黒に立ちふさがり、ひとりの大将が、駒を乗り出して何か云つてゐる。——馬延は、自分に較べて、それも多分味方ではないかと思ひ、
「何者か」
と、先へ近づいて訊いた。
すると、彼方(あなた)の者は、大音をあげて、
「われこそは呉に彼有りとも云はれた甘寧である。こゝろよく我が刃(やいば)をうけよ」
云ひも終らぬうち、馬躍らせて近寄りざま、馬延を一刀の下に斬り落した。
後ろにゐた張顗は、驚いて、
「さては呉の大将か」と、槍をひねつて、突きかゝつたが、それも甘寧の敵ではなかつた。
眼の前で、張顗、馬延の討死を見た曹操は、甘寧の勇にふるへあがつて、さしかゝつて来た南夷陵の道を避け、急に、西へ曲がつて逃げ走つた。
幸に、彼を探してゐる張郃の残軍に出会つたので、
「あとから来る敵を防げ」
と、馬も止めずに命じながら、鞭も折れよと、駈けつゞけた。
夜はすでに、五更の頃ほひであつた。振(ふり)かへると、赤壁の火光も漸く遠く薄れてゐる。曹操はやゝほつとした面持で、駈け遅れて来る部下を待ちながら、
「こゝは、何処か」
と、左右へたづねた。
もと荊州の士(さむらい)だつた一将が答へて云ふ。
「——烏林の西。宜都(ギト)の北の方です」
「宜都の北とな。あゝそんな方角へ来てゐたか」
と曹操は、馬上から、しきりに附近の山容(サンコク)や地形を見まはしてゐた。山川(サンセン)峨々(ガヽ)として樹林深く、道はひどく嶮(けは)しかつた。
「あははゝゝ。あははは」
——突然、曹操が声を放つて笑ひ出したので、前後の大将たちは奇異な顔をしせて(ママ)彼にたづねた。
「丞相。何をお笑ひになるのですか」——と。
曹操は、答へて云ふ。
「いや、〔べつだん〕な事でもない。今このあたりの地相を見て、ひとへに周瑜の浅才(センサイ)や、孔明の未熟が分つたから、つい可笑(をか)しくなつたのだ。もしこの曹操が周瑜か孔明だつたら、まづこの地形に伏兵をおいて、落ち行く敵に殲滅を加へるところだ。——思ふに赤壁の一戦は、彼等の怪我勝ちといふもので、こんな地の利を遊ばせておくやうでは、まだ/\周瑜も孔明も成つてをらぬ」
敗軍の将は兵を語らずといふが——曹操は馬上から四林四山を指さして、猶(なほ)、幕将連に兵法の実際講義を一席辯じてゐた。
ところが、その講義の終るか終らないうちに、忽ち左右の森林から一隊の軍馬が突出して来た。そして前後の道を囲むかと見えるうちに、
「常山の子龍趙雲これに待てりつ。曹操つ、待て」
といふ声が聞えたので、曹操は驚きの餘り、危く馬から転げ落ちさうになつた。
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