吉川英治『三国志(新聞連載版)』(711)降参船(かうさんぶね)(四)
昭和17年(1942)1月15日(木)付掲載(1月14日(水)配達)
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関羽の切なることばを傍らで聞いてゐた玄徳は、彼の立場を気の毒に思つたか、孔明に向つて、
「いや、軍師の案じられるのも理由なきことではないが、この大戦に当つて、関羽ともある者が、留守を命じられてゐたと聞えては、世上へも部内へも面目が立つまい。どうか、一手の軍勢をさづけ関羽にも一戦場を与へられたい」
と、取(とり)做(な)した。
孔明は、是非ない顔して、
「然らば、万一にも、軍命を怠ることあらば、いかなる罪にも伏すべしといふ誓紙を差出されい」
と、云つた。
関羽は、即座に、誓文を認(したゝ)めて軍師の手許へさし出したが、なほ心外にたへない面持を眉に残して
「仰せの儘(まゝ)、それがしはかく認(したゝ)めましたが、もし軍師のおことばと違ひ、曹操が華容道へ逃げて来なかつたら、その場合、軍師御自身は、何と召されるか」
と、言質を求めた。
孔明は、微笑して、
「曹操がもし華容道へ、落ちずにべつな道へ遁(のが)れたときは、自分も必ず罪を蒙(かうむ)るであらう」
と、約した。
そして、猶(なほ)、
「足下は、華容山(クワヨウザン)の裡(うち)にひそみ、峠の方(かた)には、火を放(つ)け、柴を焼かせ、わざと煙をあげて、曹操の退路に伏せて居られよ。曹操が死命を制し得んこと必定であらう」
と、命じた。
「おことばですが」と、関羽は、その言を遮つて、
「峠に火烟(クワヱン)をあげなば、折角、落ちのびて来た曹操も、道に敵あることを覚り、ほかへ方角を変へて逃げ失せはいたすまいか」
「否々(いな/\)」
孔明は、わらつて、
「兵法に、表裏と虚実あり、曹操は元来、虚実の論に詳しき者。彼行くての山道に煙りのあがるを見なば、これ、敵が人あるごとき態(テイ)を見せかくるの偽計なりと観破し敢て、冒(おか)し来るに相違ない。敵を謀るにはよろしく敵の智能の度を測るを以て先とす——とはこの事。あやしむ勿(なか)れ。羽将軍、疾(と)くゆき給へ」
「なるほど」
関羽は、嘆服して、退くと、養子の関平、腹心の周倉などを伴つて、手勢五百餘騎をひきゐ、まつしぐらに華容道へ馳せ向つた。
そのあとで玄徳は、却(かへ)つて、孔明よりも、心配顔してゐた。
「いつたい、関羽といふ人間は、情(なさけ)に篤く義に富むこと、人一倍な性質であるからは、あゝは云つて差向けたものゝ、その期に臨んで、曹操を助けるやうな処置に出ないとは限らない。……あゝ、やはり軍師のお考へ通り、留守を命じておいた方が無事だつたかもしれない」
孔明は、その言を否定して、
「あながち、それが良策ともいへません。むしろ関羽を差向けたほうが、自然にかなつて居りませう」
と、云つた。
玄徳が、不審顔をすると、理を説いて、かうつけ加へた。
「なぜならば——です。私が天文を観じ人命を相するに、この度の大戦に、曹操の隆運とその軍力の滅散するは必定でありますが、なほまだ、曹操個人の命数はこゝで絶息するとは思われません。彼にはなお天寿がある。——故に、関羽の心根に、むかし受けた曹操の恩に対して、今もまだ報じたい情があるなら、その人情を尽(つく)させてやるもよいではありませんか」
「先生。……いや軍師。あなたはそこまで洞察して、関羽を遣(つか)はしたのですか」
「およそ、それ位なことが分らなければ、兵を用ひて、その要所に適材を配することはできません」
云ひ終ると、孔明は、やがて下流の方に、火焰(カエン)が天を焦がすのも間近であらうと、玄徳を促して、樊口の山頂(やまいたゞき)へ登つて行つた。
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