吉川英治『三国志(新聞連載版)』(710)降参船(かうさんぶね)(三)
昭和17年(1942)1月14日(水)付掲載(1月13日(火)配達)
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張飛に向つては、
「御辺は、三千騎をひきつれ、江を渡つて、夷陵(イリヨウ)の道を切り塞がれよ」と、孔明は命じた。
そして、猶(なほ)、
「そこの葫蘆谷(コロコク)に、兵を伏せて相待たば、曹操はかならず南夷陵(ナンイリヨウ)の道を避けて、北夷陵をさして逃げ来るであらう。明日、雨晴れて後、曹操の敗軍、この辺りにて、腰兵糧を炊(かし)ぎ用ひん。その炊煙をのぞんで一度に喚(をめ)(ママ)きかゝり給へ」
と、つぶさに教へた。
張飛は、孔明の餘りな豫言を怪しみながらも、
「畏(かしこ)まつた」
と、心得て、直(たゞち)にその方面へ馳せ向ふ。
次に、糜竺、糜芳、劉封の三名を呼び、
「御辺三人は、船をあつめて、江岸をめぐつて、魏軍営、潰乱(クワイラン)に陥ちたと見たら、軍需兵糧の品々を、悉皆(シツカイ)、船に移して奪ひ来たれ。また諸所の道にかゝる落人(おちうど)共の馬具、物具なども餘すなく鹵獲(ロクワク)せよ」
と、いひつける。
又、劉琦に向つては、
「武昌(ブシヤウ)は、緊要の地、君かならず守りを離れたもふ勿(なか)れ。たゞ江辺を固め、逃げ来る敵あらば、捕虜として味方に加へられい」
最後に、玄徳を誘つて、
「いで、君と臣とは、樊口の高地へのぼつて、こよひ周瑜が指揮なすところの大江上戦を見物申さん。——早(はや)、お支度遊ばされよ」
と促すと、
「かく迄(まで)に、戦機は迫つてゐたか。儂(み)もかうしては居られまい」
と、玄徳も取急いで、甲冑をまとひ、孔明と共に、樊口の望臺へ移らうとした。
すると、それ迄、なほ何事も命ぜられずに、悄然と、一方に佇立してゐたひとりの大将がある。
「あいや、軍師」
と、初めて、この時、ことばを発した。
見れば、そこにたゞ一人取残されてゐたのは、関羽であつた。
知つてか、知らずか、孔明は、
「おう、羽将軍、何事か」
と、振返つて、しかも平然たる顔であつた。
関羽は、やゝ不満のいろを、眉宇にあらはして、
「先程から、いまに重命もあらんかと、これに控へてゐたが、なほそれがしに対して、一片の御示命もなきは、いかなるわけで御座るか。不肖、家兄(このかみ)に従うて、数十度の軍(いくさ)に会し、いまだ先駈けを缺いたためしもないのに、この大戦に限つて、関羽ひとりをお用ひなきは、何か、おふくみのある事か」
と、眦(まなじり)に涙をたゝへて詰寄つた。
孔明は、冷やゝかに、
「さなり。御身を用ひたいにも、何分ひとつの障(さはり)がある。それが案じらるゝ儘(まゝ)、わざと御身には留守をたのんだ」
「何。障(さはり)あると。——明らかに理由を仰せられい。関羽の節義に曇りがあると云はるゝか」
「否。御辺の忠魂は、いさゝか疑ふ者はない。けれど、思ひ出し給へ。その以前、御身は曹操に篤う遇(ぐう)せられて、都を去る折、彼の情誼にほだされて、他日かならずこの重恩に報ぜんと、誓つた事がおありであらうが——今、曹操は烏林に敗れ、その退路を華容道(クワヨウドウ)にとつて、かならず奔亡して来るであらう。故に、御辺をもつて、道に待たしめ、曹操の首を挙げることは、寔(まこと)に嚢(ふくろ)の物を取るやうなものだが、たゞ孔明の危(あやぶ)むところは、今云うた一点にある。御辺の性情として、かならず旧恩に動かされ、彼の窮地に同情して、放し免(ゆる)すにちがひない」
「何の!それは軍師の餘りな思ひ過ぎである。以前の恩は恩として、すでに曹操には報じてある。かつて彼の陣を借り、顔良、文醜などを斬り白馬の重囲を蹴ちらして彼の頽勢(タイセイ)を盛返したなど——その報恩としてやつたもので御座る。なんで、今日ふたゝび彼を見のがすべきや、ぜひ、関羽をお向け下さい。万一、私心に動かされたりなどしたら潔く軍法に服しませう」
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