吉川英治『三国志(新聞連載版)』(708)降参船(かうさんぶね)(一)
昭和17年(1942)1月11日(日)付掲載(1月10日(土)配達)
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「この大機会を逸してどうしませうぞ」
といふ魯粛の諫めに励まされて、周瑜も遽(にはか)にふるひ起(た)ち、
「まづ、甘寧を呼べ」
と令し、営中の参謀部は、俄然、活気を呈した。
「甘寧にござりますが」
「おゝ、来たか」
「いよ/\敵へお蒐(かゝ)りになりますか」
「然り。——汝に命ずる」
周瑜は厳かに、軍令をさづけた。
「かねての計画に従つて、まづ、味方の内へ紛れこんでゐる蔡仲、蔡和のふたりを囮(おとり)とし、是(これ)を逆用して、敵の大勢をくつがへす事。……その辺はぬかりなく心得てをろうな」
「心得てをりまする」
「汝はまづ、その一名の蔡仲を案内者として、曹操に降参すと称(とな)へ、船を敵の北岸へ寄せて、烏林へ上陸(あが)れ。そして蔡仲の旗をかざし、曹操が兵糧を貯へおく粮倉(ラウサウ)へ迫つて、縦横無尽に火を放(か)けろ。火の手の旺(さかん)なるを見たら、同時に敵営へ迫つて、側面から彼の陣地を攪乱せよ」
「承知しました。して残る一名の蔡和はいかゞいたしますか」
「蔡和は、べつに使ひ途(みち)があるから残して行くがよい」
甘寧が退がつて行くと、周瑜はつゞいて、太史慈を呼び、
「貴下は、三千餘騎をひつさげて、黄州の堺に進出し、合淝(ガウヒ)にある曹軍の勢に一撃を加へ、驀(ま)しぐら(ママ)に敵の本陣へかゝり、火を放つて焼討せよ。——そして紅(くれない)(ママ)の旗を見るときは、わが主呉侯の旗下勢と知れかし」
第三番目に、呂蒙を呼んだ。
呂蒙に向つては、
「兵三千をひいて、烏林へ渡り、甘寧と一手になつて、力戦を扶(たす)けろ」
と命じ、第四の凌統へは、
「夷陵(イレウ)の境にあつて、烏林に火のかゝるのを見たら、すぐ喚(をめ)きかゝれ」
と、それへも兵三千をあづけ、更に、董襲へは、漢陽から漢川(カンセン)方面に行動させ、また潘璋へも同様三千人を与へて、漢川方面への突撃を命じた。
かうして、先鋒六隊は、白旗を目じるしとして、早くも打立つた。——一方、水軍の舟手も、それぞれ活潑なうごきを見せてゐたが、かねてこの一挙に反間の計を施さんものと手に唾して待つてゐた黄蓋は、早速、曹操の方へ、人を派して、
「いよ/\時節到来。今夜の二更に、呉の兵糧軍需品を能(あた)ふかぎり奪(と)り出して、兵船に満載し、いつぞやお約束のごとく、貴軍へ降参に参ります。依つて、船檣(センシヤウ)に青龍の牙旗(がき)をひるがへした船を見給はば、これ呉を脱走して、お味方の内へ辷(すべ)り込む降参船なりと知りたまへ」
と、云ひ送つた。
密やかに、誠しやかに、かう曹操の方へは、諸事、諜(しめ)し合せを運びながら、黄蓋は着々とその夜の準備をすゝめてゐた。まづ、二十艘の火船を先頭にたて、そのあとに、四隻の兵船を繫(つ)けた。つゞいて、第一船隊には、領兵軍官韓当がひかへ、第二船隊には同じく周泰、第三の備へに蔣欽、第四には陳武と——約三百餘艘の大小船が、舳(みよし)をならべて、夜を待ちかまへた。
すでに宵闇は迫り、江上の風波はしきりと暴(あ)れてゐた。今暁からの東南(たつみ)風(かぜ)は、昼をとほして、猶(なほ)もさかんに吹いてゐる。
何となく生温かい。そして気(け)懶(だる)いほど、陽気外れな晩だつた。
そのためか、江上一帯には、水蒸気が立ちこめてゐた。幸先(さいさき)よしと、黄蓋は、纜(ともづな)を解いて、一斉に発動を命令した。
三百餘艘の艨艟(モウドウ)は、淙々(サウ/\)と、白波を切つて、北岸へすゝんで行つた。——そのあとについて、周瑜、程普の乗りこんだ旗艦の大軀も、颯々、満帆を〔はため〕かせながら動いてゆく。
後陣として続いてゆく一船列は、右備へ丁奉、左備へ徐盛の隊らしかつた。
魯粛と龐統は、この夜、あとに残つて、留守の本陣を守つてゐた。
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なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。

