吉川英治『三国志(新聞連載版)』(705)孔明・風を祈る(三)
昭和17年(1942)1月8日(木)付掲載(1月7日(水)配達)
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この配信は国会図書館所蔵の『中外商業新報』を底本にしていますが、昭和17年(1942)1月8日(木)付夕刊は残念ながら缺号となっています。これに伴い、今回の配信は吉川英治『三国志』の「巻の八 赤壁の巻」(昭和17年[1942]5月発行)の当該箇所を底本としています(記号や漢字表記、振り仮名などについては適宜あらためています)。あらかじめご諒承ください。
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魯粛の去つたあとで、孔明はまた壇下の将士に戒めて云ひわたした。
「われ、風を祈るあひだ、各々も方位を離れ、或は私語など、一切これを禁ず。又、いかなる怪しき事ありとも、愕(おどろ)き騒ぐべからず。行(ギヤウ)をみだし、法に反(そむ)く者は立ち所に斬つて捨てん」
彼は——さう云ひ終ると、踵(きびす)をめぐらし、緩歩して、南面した。
香を焚き、水を注ぎ、天を祭ることやゝ二(ふた)刻(とき)。
口のうちで、祝文(シユクモン)を唱へ、詛(ジユ)を切ること三(み)度(たび)。なお黙禱やゝ久しうして、神気漸くあたりにたちこめ、壇上壇下人声なく、天地万象また寂(セキ)たるものであつた。
夕星(ゆふづつ)の光が白く空にけむる。いつか夜は更けかけてゐた。孔明はひとたび壇を降りて、油幕(ユマク)のうちに休息し、そのあひだに、祭官、護衛の士卒などにも、
「交(かは)る/゛\飯を喫し、しばし休め」
と、ゆるした。
初更からふたゝび壇にのぼり、夜を徹して孔明は「行(ギヤウ)」にかゝつた。けれど深夜の空は冷々(レイ/\)と死せるが如く、何の兆(しるし)もあらはれて来ない。
一方、魯粛は周瑜に報じて、万端の手筈をうながし、呉主孫権にも、事の次第を早馬で告げ、もし今にも、孔明の祈りの験(しる)しがあらはれて、望むところの東南(たつみ)の風が吹いて来たら、直に、総攻撃へ移らうと待機してゐた。
また、さうした表面的なうごきの陰には、例の黄蓋が、かねての計画どほり、二十餘艘の兵船(ヘイセン)快舟(はやぶね)を用意して、内に乾草(ほしぐさ)枯柴(かれしば)を満載し、硫黄、焰硝を下にかくし、それを青布の幕ですつかり蔽(おほ)つて、水上の進退に馴れた精兵三百餘を各船にわかち載せ、
「大都督の命令一下に」
と、ひそやかに待ち構へてゐた。
もちろんこの一(イチ)舷隊(ゲンタイ)は、初めから秘密に計(はかりごと)を抱(いだ)いてゐるので、そこでは黄蓋と同心の甘寧、闞沢などが、敵の諜者たる蔡和、蔡仲を巧みにとらへて、わざと酒を酌み、遊惰の風を見せ、そしていかにも真(まこと)しやかに、
(どうしたら首尾よく味方を脱して、曹操の陣へ無事に渡り得るか)
と、降伏(カウフク)行(カウ)の相談ばかりしてゐたのである。
次の日もはや暮れて、日没の冬雲は赤く長江を染めてゐた。
ところへ、呉主孫権のはうからも、伝令があつて、
「呉侯の御旗下、その餘の本軍は、すでに舳艫(ジクロ)をそろへて溯江の途中にあり、こゝ前線を距(へだ)つこと、すでに八十里ほどです」
と、告げて来た。
その本陣も、こゝ最前線の先鋒も中軍も、いまはたゞ周瑜大都督の下知を待つばかりであつた。
自然、陣々の諸大将もその兵も、固唾(かたづ)をのみ、拳(こぶし)をにぎり、何とはなく、身の毛をよだてて、
「今か。今か」
の心地だつた。
夜は深まるほど穏やかである。星は澄み、雲もうごかない。三江の水は眠れるごとく、魚鱗のやうな小波をたててゐる。
周瑜は、あやしんで、
「どうしたといふことだ?……いつかう祈りの験(しるし)は見えて来ないぢやないか。——思ふにこれは、孔明の詐(いつは)り事だらう。さもなければ、つい広言のてまへ、自信もなくやり出した事で、今頃は、南屏山の七星壇に、立ち往生のかたちで、後悔してゐるのではないかな」
呟くと、魯粛は、側にあつて、
「いや/\、孔明のことですから、そんな軽々しい事をして、自ら禍を求めるはずはありません。もうしばらく見てゐて御覧なさい」
「……けれど、魯粛。この冬の末にも近くなつて、東南(たつみ)の風が吹くわけはないぢやないか」
あつ、その言葉を、彼が口に洩らしてから、実に、二(ふた)刻(とき)とて経たないうちであつた。一天の星色(セイシヨク)次第に革(あらた)まり、水颯々、雲(くも)颼々(シウシウ)、漸く風が立ち初めて来た。しかもそれは東南(たつみ)に特有な生温かい風であつた。
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次回 → 孔明・風を祈る(四)(2026年1月8日(木)18時配信)

