吉川英治『三国志(新聞連載版)』(704)孔明・風を祈る(二)
昭和17年(1942)1月7日(水)付掲載(1月6日(火)配達)
ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
前回はこちら → 孔明・風を祈る(一)
***************************************
季節はいま北東の風ばかり吹く時である。北岸の魏軍へ対して、火攻の計を行はうとすれば、却(かへ)つて味方の南岸に飛火し、船も陣地も自ら火をかぶる怖れがある。
孔明は、周瑜の胸の憂悶が、そこにあるものと、図〔ぼし〕をさしたのである。周瑜としては、その秘策はまだ孔明に打明けないことなので、一時は驚倒せんばかり愕(おどろ)いたが、かういふ達眼の士に隠しだてしても無益だと悟つて、
「事は急なり、天象は儘(まゝ)ならず、一体、如何すべきでせうか」
と、却つて、彼の垂教(スヰケウ)を仰いだのであつた。
孔明は、それに対して、かういふことを云つてゐる。
「むかし、若年の頃、異人に会うて、八門遁甲の天書で伝授されました。それには風伯雨師を祈る秘法が書いてある。もしいま都督が東南(たつみ)の風をおのぞみならば、わたくしが畢生の心血をそゝいで、その天書に依つて風を祈つてみますが——」と。
だが、これは孔明の心中に、べつな自信のあることだつた。毎年冬十一月ともなれば、潮流と南国の気温の関係から、季節〔はづれ〕な南風が吹いて、一日二日のあひだ冬を忘れることがある。その変調を後世の天文学語で貿易風といふ。
ところが、今年に限つて、まだその貿易風がやつて来ない。孔明は長らく隆中に住んでゐたので年々つぶさに気象に細心な注意を払つてゐた。一年といえどもまだそれの無かつた年はなかつた。——で、どうしても今年もやがて間近にその現象があるものと確信してゐたのである。
「十一月二十日(はつか)は甲子(きのえね)にあたる。この日にかけて祭すれば、三日三夜のうちに東風(たつみ)が吹き起りませう。南屏山(ナンペウザン)の上に七星壇を築かせて下さい。孔明の一心をもつて、かならず天より風を借らん」
と、彼は云つた。
周瑜は、病を忘れ、忽ち陣中を出て、その指図をした。魯粛、孔明も馬を早めて南屏山にいたり、地形を見さだめて、工事の督励にかゝる。
士卒五百人は壇を築き、祭官百二十人は古式に則(のつと)つて準備をすゝめる。東南(たつみ)の方(かた)には赤土を盛つて方円二十四丈とし、高さ三尺、三重の壇をめぐらし、下の一重には二十八宿の青旗(セイキ)を立て、また二重目には六十四面の黄色の旗に、六十四(ロクジフシ)卦(ケ)の印(しるし)を書き、なほ三重目には、束髪の冠をいたゞいて、身に羅衣(うすもの)をまとひ、鳳衣(ホウエ)白帯(ハクタイ)した朱履(シユリ)方裙(ハウクン)といふ者を四人立て、左のひとりは長い竿に鶏の羽を挟んだのを持つて風を招き、右のひとりは七星の竿を掲げ、後のふたりは宝剣と香炉とを捧げて立つ。
かうした祭壇の下には又、旌旗(セイキ)、宝蓋、大戟(タイゲキ)、長槍、白旄(ハクバウ)、黄鉞(クワウヱツ)、朱旛(シユハン)などを持つた兵士二十四人が、魔を寄せ付けじと護衛に立つなど——何にしてもこれは途方もない大仰な行事であつた。
時、十一月二十日。
孔明は前日から斎戒沐浴して身を浄(きよ)め、身には白の道服を着、素足のまゝ壇へのぼつて、いよ/\三日三夜の祈りにかゝるべく立つた。
——が、その一瞬のまへに、
「魯粛は、あるや」
と、呼ばはつた。
壇の下からたゞちに、
「これにあり」
と、いふ声がした。
孔明はさしまねいて、
「近く寄りたまへ」
と、いひ、そして厳かに、
「いまより、それがしは、祈りにかゝるが、幸(さいはひ)に、天が孔明の心をあわれみ給うて、三日のうちに風を吹き起すことあらば、時を移さず、かねての計をもつて、敵へ攻め襲(よ)せられるやうに——御辺はこの由を周都督に報じ、お手〔ぬかり〕のないやうに万端待機せられよ」
と、念を押した。
「心得て候ふ」
とばかり、魯粛はたちまち駒をとばして、南屏山から駈け下りて行つた。
***************************************
次回 → 孔明・風を祈る(三)(2026年1月7日(水)18時配信)

