吉川英治『三国志(新聞連載版)』(702)鉄鎖の陣(三)
昭和17年(1942)1月1日(木)付掲載(12月31日(火)配達)
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【前回迄の梗概】
◇…長江の流れを挟んで対陣する魏、呉は今し決戦寸前の態勢にあるが、破竹の勢を以て南下し来つた魏軍も水戦には馴れず、些か攻めあぐねた形である
◇…時に曹操幕下の焦触、張南は先陣の功を成さんものと、軍船二十隻を駈つて呉の陣へ寄せて来た
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周瑜は陣後の山へ駈けのぼつて行つた。望戦臺から手をかざして見る。江上の接戦はもう飛沫(しぶき)の中に開かれてゐる。
快速の舟艇(シウテイ)ばかり三、四十が入り乱れて矢を射(い)交(かは)してゐる様子。魏の焦触、張南のふたりは、遮二無二、岸へ向つて突進をこゝろみ、
「第一に陸地を踏んだ者には、曹丞相に申しあげて、軍功帳の筆頭に推すぞ。怯(ひる)むな面々」
と、声をからして奮戦を励ました。
呉の大将韓当は、それを防ぎ防ぎ自身、長槍を持つて一艇の舳(みよし)に立ち現れ、
「御座んなれ、みな好餌だ」
と、横ざまに艇をぶつけて行つた。
焦触は、何をとばかり、矛(ほこ)をふるつて両々(レウ/\)譲らず十数合ほど戦つたが、風浪が激しいため、舟と舟は揉みに揉みあひ、勝負はいつ果てるとも見えない。
ところへ、呉の周泰がまた、船を漕ぎよせて、
「韓当々々。いつまでそんな敵に手間どるのだ」
と、励ましながら、手の一槍を風に乗つて、ぶうんと投げた。
敵の焦触は、見事、投げ槍に串刺しにされて、水中へ落ちた。彼の副将張南は、それと見るや、
「おのれつ」
と、弩(いしゆみ)を張つて、周泰の舟へ近づきながら、雨あられと矢を向けて来た。
周泰は舷(ふなべり)の陰に〔ひた〕と身を伏せたまゝ、矢(や)面(おもて)をくゞつて敵艇へ寄せて行つたが、どんと、船腹(ふなばら)と船腹のあひだに勢よく水煙が揚つたせつなに、おうつと一(イツ)吼(ク)して、対手(あひて)の船中へ躍りこみ、張南をたゞ一刀に斬りすてたのみか、その艇を分捕つてしまつた。
かくて水上の序戦は、魏の完敗に終り、首将ふたりまで打たれてしまつたので、魏の船はみだれみだれて風波の中を逃げちらかつた。
「—おう、おうつ、味方の大捷(タイセフ)だ。江上戦は有利に展開したぞ」
望戦臺の丘に立つてこれを見てゐた周瑜の喜色はたいへんなものである。——が、戦況の変は忽ち一喜一憂だ。やがて彼のその顔も暗澹(アンタン)として、毛穴もそゝけ立つばかり不安な色を呈して来た。——といふのは、敗報をうけた曹操が、小(こ)癪(シヤク)なる呉の舟艇、一気に江底の藻屑(もくず)にせん、と怒り立つて、その夥(おびたゞ)しい闘艦、大船の艨艟(モウドウ)をまつ黒に押し展(ひら)き、天も晦(くら)うし、水の面(も)もかくれんばかり、呉岸へ向つて動き出して来る様子なのである。
「あゝ、さすがは魏。偉なるかな、その大船陣。われ水軍を督すること十年なれど、まだこんな偉容を水上に見たことはない。いかにしてこれを破るべきか」
眼に見たゞけで、周瑜はすでに気をのまれたかたちだつた。懊悩戦慄、施すべき術(すべ)も知らなかつた。
すると突然、江上の波は怒り、狂風吹き捲いて、こゝかしこ数丈の水煙が立つた。そして曹操の乗つてゐる旗艦の「帥」字の旗竿が折れた。
「——あれよ」
と、立騒ぐ江上の狼狽ぶりが眼に見えるやうだつた。臨戦第一日のことだ。これは誰(たれ)しも忌む大不吉にちがひない。間もなく連環の艨艟はこと/゛\く帆をめぐらし舵(かじ)を曲げて、烏林の湾口ふかく引つ返してしまつた。
「天の祐(たす)けだ。天冥の加護わが軍にあり」
と、周瑜は手をたゝいて狂喜した。然るに、江水を吹(ふき)捲(ま)いた龍巻は、忽ち一天をかき曇らせ、南岸一帯からこの山へも、大粒の雨を先駆として、もの凄まじく暴れまはつて来た。
「呀(あ)ツ」
と、周瑜が絶叫したので、まはりにゐた諸大将が仰天して駈けよつてみると、周瑜のかたはらに立てゝあつた大きな司令旗の旗竿が狂風のため二つに折れて、彼の体はその下に圧しつぶされてゐたのだつた。
「おゝつ、血を吐かれた」
諸人は驚いて、彼の体をかゝへあげ、山の下へ運んで行つたが、周瑜は気を失つてしまつたものらしく途中も声すら出さなかつた。
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次回 → 孔明・風を祈る(一)(2026年1月5日(月)18時配信)
昭和17年(1942)1月2日(金)付から昭和17年(1942)1月5日(月)付まで夕刊は休刊でした。これに伴い、次回配信は2026年1月5日(月)からとなります。
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