吉川英治『三国志(新聞連載版)』(701)鉄鎖の陣(二)
昭和16年(1941)12月31日(水)付掲載(12月30日(火)配達)
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「そちたちは皆、北国の生れではないか。船二十艘を持つて、何をやるといふのだ。児戯に類した真似をして、敵味方に笑はれるな」
と、叱つただけで、曹操は二人の乞をゆるさなかつた。
焦触、張南は大いに叫んで、
「これは心外な仰せです。われ等は長江のほとりに育ち、舟を操(や)ること、水を潜(くゞ)ること、平地も異(ことな)りません。万一、打負けて帰つたら軍法に糺(たゞ)して下さい」
「意気は賞(ほ)めてつかはすが、何もさう逸(はや)つて生命(いのち)を軽んじないでもいゝ。——それに大船、闘艦はすべて鎖をもつて繫(つな)ぎ、走舸(ソウカ)、蒙衝(モウシヨウ)のほかは自由に行動できぬ」
「もとより大船や闘艦を拝借しようとは申しません。蒙衝五、六隻、走舸十数艘、あはせて二十もあればよいのです」
「それで何とする気か」
「張南と二手にわかれて、敵の岸辺へ突入し、呉の気勢を挫いて、このたびの大戦の真先に立ちたいのです」
焦触は熱望してやまない。それほどに云ふならばと、つひに曹操も彼の乞を容れた。
「併(しか)し、二十艘では危い」
と、大事をとつて、別に文聘に三十艘の兵船をさづけ、兵五百をそれに附した。
こゝで一応、当時の船艦の種別や装備をあらまし知つておくのも無駄であるまい。大略、説明を加へておく。
[闘艦]=これは最も巨(おほ)きくまた堅固にできてゐる。艦の首尾には石砲(セキハウ)を備へつけ、舷側には鉄柵(テツサク)が結ひまはしてある。また楼には弩弓(ドキウ)を懸(かけ)連(つら)ね、螺手(ラシユ)鼓手(コシユ)が立つて全員に指揮合図を下す。ちやうど今日の戦闘艦にあたるものである。
[大船]=と呼ぶふつう兵船型のものは、現今の巡洋艦のやうな役割をもつ。兵力軍需の江上運輸から戦闘の場合には闘艦の補助的な戦力も発揮する。
[蒙衝]=船腹を総体に強靱な生牛の皮で外装した快速の中型船。もつぱら敵の大船隊の中を駆逐し、また奇襲戦に用ひる。兵六七十人は乗る。
[走舸]=これは小型の闘艦といふやうなもの、積載力二十人あまり。江上一面に〔うんか〕の如く散らかつて、大船闘艦へ肉薄、投火、挺身、あらゆる方法で敵を苦しませる。
——このほかにも猶(なほ)、雑多な船型や、大小の種類もあるが、総じて船首の飾りや船楼は濃厚な色彩で塗りたて、それに旌旗(セイキ)や刀槍のきらめきが満載されてゐるので、その壮大華麗は水天に映じ、言語を絶するばかりである。
さて——。
呉の陣営の方でも、決戦の用意おさ/\怠りなかつた。駈け交(ちが)ひ駈け交ひ軽舸の齎(もた)らして来る情報はひきもきらない。
また、附近の山のうへには、昼夜、物見の兵が江上に眼を光らし芥(あくた)の流れるのも見のがすまいとしてゐた。
今。——そこに監視してゐた部将と兵の一団が、突然、
「来たつ」
「おうつ、敵の船が」
と、大きく叫んだかと思ふと、だゝつと駈け降りて来て、周都督の本陣のうちで呶(ど)鳴(な)つてゐた。
「二列、二手にわかれた敵の蒙衝と走舸が、波を衝(つ)いて、こなたへ襲(よ)せてきます。敵です! 敵です!」
それと共に、山の上からは、物見のあげた狼煙(のろし)のひゞきが、全軍へ亙(わた)つて、急を報(し)らせてゐた。
「すは」
周瑜もすぐ轅門(ヱンモン)に姿をあらはしたが、犇(ひし)めく諸将に向つて、
「立ち躁(さは)ぐには及ばん。多寡の知れた小船隊だ。たれか進んで、江上に打砕き、序戦の祝ひに手柄を立てゝみる者はないか」
と云つた。
韓当、周泰のふたりが、
「仰せ、承りました」
と、すぐ江岸から十数艘の牛革船(ギウカクセン)を解き放ち、左右から鼓(コ)を鳴らして敵船へ迫つて行つた。
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